享年67で逝去された経済評論家、森永卓郎氏が最期に書き下ろした原稿とインタビューをもとにした遺作『さらば! グローバル資本主義――「東京一極集中経済」からの決別』が刊行され、大きな反響を呼んでいます。本書では、森永氏が到達した「日本人が生き抜くための“答え”」として、資本主義の抱える闇に鋭く切り込んでいます。今回は、新刊と未発表原稿を再編集した内容から、戦後に生まれた「住宅ローン」がいかにして「経済成長なき、ひ弱な日本」を形成する一因となったのか、その森永氏による解説を紹介します。
戦後日本の住宅不足と東京一極集中
第2次世界大戦後、日本では深刻な住宅不足に直面していました。全国で約420万戸もの住宅が不足しているとされ、昭和30年(1955年)の時点でも270万戸の不足が続いていました。この状況は特に都市部で顕著で、地方から若者が東京へ向かう「集団就職列車」の運行が長期にわたり、毎年約60万人もの人々が大都市へ流入し、家庭を築くことで住宅需要はさらに逼迫しました。このような人口の「東京一極集中」は、戦後の日本の社会構造を大きく変える基盤の一つとなりました。
「マイホームブーム」と住宅ローンの誕生
住宅不足が続く中、勤労者層の住宅確保を目的として、住宅公団は公営住宅と公庫融資の中間層向けの住宅供給を進めました。そして、一般庶民に「マイホーム」を持つ夢を煽る動きが活発になり、1970年代後半に「住宅ローン」が広く普及し、「大ヒット商品」となりました。
庶民のマイホーム購入を後押しした住宅ローンの登場
日本では、民間金融機関(銀行、信用組合、信用金庫)における個人向けサービスは長らく預金業務が中心でした。個人への融資は、安田財閥の創始者である安田善次郎氏が1896年に類似の仕組みを始めたとされるものの、銀行が融資対象とする個人は企業の役職者、実業家、専門職、公務員など、ある程度の地位と安定収入を持つ層に限られていました。そのため、自宅を購入・建設しようとする一般の個人は、自己資金を持つか、親族からの資金援助や贈与を受けられる層に限定されていたのです。
国による「住宅金融公庫」の役割
このような状況下で、国は1950年に特殊法人「住宅金融公庫」を設立しました。これは、一般の国民、特に労働者が住宅を建設するための「公庫融資」を提供する画期的な制度でした。この公庫融資は、25年以上の長期固定金利で民間金融機関よりも低金利であったため、庶民がマイホームを取得するための「切り札」として機能しました。約半世紀にわたり、この制度は多くの人々の住まい取得を支えましたが、小泉政権による「行政改革」の一環として実質的に廃止されました。
住宅ローンが普及し、マイホームブームが加熱する中で、多くの国民は将来の返済義務を背負うことになりました。森永氏は、この住宅ローンが、人々を長期的な負債に縛り付け、その後の消費行動や経済活動に大きな影響を与え、結果として「経済成長なき、ひ弱な日本」の形成に寄与したと指摘しています。国民が住居費に多くを割くことで、他の消費が抑制され、内需の活性化を妨げる要因ともなり得たというのです。
参考文献
- 東洋経済オンライン: 「戦後に生まれた《住宅ローン》が《経済成長なき、ひ弱な日本》をつくった原因」. Yahoo!ニュース (2024年7月17日).
- 森永卓郎 著: 『さらば! グローバル資本主義――「東京一極集中経済」からの決別』.