今回の参議院選挙は、多くの予測通り与党の惨敗に終わった。国民を驚かせたのは、石破茂首相が3連敗を喫しながらも「続投」を宣言したことだ。過去にも選挙敗北後に退陣を拒否した首相はいたが、その後の道のりは平坦ではなかった。この「居座り宣言」は、今後の「石破おろし」の動きを加速させるだろう。また、今回の参院選は、外国人受け入れを巡る対立や「国難」における与野党の不協和音など、日本社会の隠れた側面を浮き彫りにした。国際社会における日本の影響力衰退も懸念され、明確な勝敗が出たにもかかわらず、後味の悪い選挙結果となった。
参院選惨敗後も続投を表明する石破茂首相
敗北を「謙虚に受け止めつつも」続投の背景
石破首相は、投開票翌日の21日午後の記者会見で「結果は謙虚に受け止めなければならない」と述べ、敗北を陳謝した。その上で、「比較第一党を頂戴したのはありがたい」とし、トランプ関税交渉や物価高対策など喫緊の政策課題を列挙。「政治に一刻の停滞も許されない。国家国民への責任を果たす」として職務継続の意向を説明した。首相は会見に先立ち自民党の臨時役員会でも同様の説明を行ったが、出席者からは「国民の意志を深刻に受け止めるべきだ」といった厳しい指摘があったという。首相が強気の姿勢を示したのは、過半数割れという結果ではあったものの、20日夜の開票作業で深夜に底力を発揮し、当初の予想ほど傷口が浅くなかったためと見られている。
過去の選挙敗北と首相の「居座り」:その後の運命は?
歴史を振り返ると、選挙に敗北した首相が職務継続を宣言した事例は複数存在する。記憶に新しいのは2007年の第1次安倍晋三政権下の参議院選挙だろう。自民党は惨敗したが、当時の安倍首相は続投を宣言。しかし政権浮揚には至らず、結局2ヶ月後に体調不良を理由に退陣に追い込まれた。
古い例では、1979年秋の総選挙が挙げられる。大平正芳首相は大型間接税の必要性を訴え敗北し、議席を大幅に減らした。追加公認でかろうじて過半数を確保したが、続投への反発は強く、大平氏と福田赳夫前首相(福田康夫元首相の父)の2人が首相指名選挙に立つ「40日抗争」に発展。この政争が尾を引き、翌年には内閣不信任案が可決され、初の衆参同日選の最中に大平首相が急死。皮肉にも、この選挙で自民党は大勝を収めている。
また、1983年末の総選挙で敗北した中曽根康弘首相は、不安定な政局運営を強いられたものの、1986年には一旦断念したかのような素振りを見せた後、意表を突いて衆議院の解散を断行。予定されていた参議院選挙との2回目の同日選で大勝した。これは「死んだふり解散」と揶揄されたが、この勝利により中曽根氏の総裁任期は1年間延長され、合計5年間に及んだ。
これらの過去の事例と照らし合わせると、石破首相の今回の行動は異質さが際立つ。昨年秋に自民党総裁に就任し、「国民の信任を問う」と臨んだ総選挙で既に大敗していることを考えれば、本来その時点で身を処すべきだった。今回もまた、過半数割れしてまで総理の椅子にしがみつく姿勢は、「摩訶不思議な神経」と評されざるを得ず、見苦しいと断じるほかない。米紙ニューヨーク・タイムズは選挙前、自民党敗北の場合に石破首相が抜き打ち的に衆議院を解散する可能性を報じていた。それが現実味に欠けるとしても、権力者は出処進退を誤れば醜態をさらすことになりかねないという事実を常に心に留めるべきである。
石破首相の決断が示す「見苦しさ」と今後の展望
今回の参議院選挙は、単なる勝敗を超え、日本政治の構造的な問題と社会の深い亀裂を浮き彫りにした。石破首相の続投宣言は異例であり、その決断が今後の政局にどのような影響をもたらすか、予断を許さない。与野党間の協力欠如や、国際社会における日本の立ち位置の変化といった課題に直面する中、国民は責任あるリーダーシップを求めている。この選挙結果は、日本の未来に向けた重要な転換点となりうるだろう。