昭和プロ野球:福本豊「世界の盗塁王」伝説と記録達成の舞台裏

近年、大谷翔平選手をはじめとしたメジャーリーガーの話題で持ちきりの野球界ですが、その礎を築き、多くのファンを魅了してきたのは、まぎれもなく「昭和」のプロ野球だと言えるでしょう。福本豊、鈴木啓示、R・バース、衣笠祥雄……。昭和世代のプロ野球ファンなら誰もが胸を熱くした、あの偉大な「記録達成」の裏側を、当時の熱気とともに振り返ります。特に「世界の盗塁王」と称された福本豊選手の伝説に深く迫ります。

昭和のプロ野球の伝説を彩る阪急ブレーブスの福本豊選手昭和のプロ野球の伝説を彩る阪急ブレーブスの福本豊選手

「世界の盗塁王」誕生秘話:ドラフト7位からの挑戦

福本豊選手は、昭和43年のドラフト会議で阪急ブレーブスに入団しました。この年のドラフトは、後に名球会入りする選手が7人、野球殿堂入りする選手が6人を数えるという、まさに空前の「当たり年」でした。しかし、福本選手の指名はその豪華さとは裏腹の、意外な経緯を辿ります。社会人の松下電器でプレーしていた彼を阪急のスカウトが見に来たのは、強打で知られたチームメイトの加藤秀司選手が目的でした。「足が速くてちょっと面白そうだから」という理由で、福本選手は7位という下位で“ついでに”指名されたのです。

しかし、その“ついで”で入団した福本選手が、並み居るドラフト同期生たちを差し置いて、同期入団選手の中で通算最多安打という金字塔を打ち立てることになります。彼の野球人生は、まさに「下剋上」の物語であり、その快足がプロ野球史に名を刻むこととなるのです。

シーズン盗塁記録の壁を破る:モーリー・ウィルス超えの105盗塁

昭和47年、福本選手は10年前にドジャースのモーリー・ウィルス選手が記録した、シーズン104盗塁というMLB記録に挑戦しました。この前人未踏の記録への挑戦は大きな注目を集め、7月には盗塁数が「80」を超えたことで、球団は福本選手の足に「1億円」もの保険をかけるという異例の措置を取りました。

そして9月22日、本拠地・西宮球場での近鉄バファローズ戦。第1打席で四球を選び出塁した福本選手は、スタンドに向かってVサインを送り、盗塁を予告するという大胆なパフォーマンスを見せます。執拗な牽制を巧みにかいくぐり、見事に盗塁を成功させ、ウィルス選手に並ぶ104盗塁を記録しました。さらに4日後の9月26日、同じく西宮球場で行われた南海ホークス戦の3回、ついにMLB記録を上回る105盗塁を達成。この時の南海の投手は新人の野崎恒男投手、捕手は監督兼任の野村克也氏でした。野崎投手は6度も牽制球を投げましたが、福本選手はそれを乗り越えての盗塁でした。海の向こうのウィルス選手からも「抜くな」というプレッシャーがあったと言います。この歴史的な一戦で阪急ブレーブスは5度目のリーグ優勝を決定し、福本選手はこの年、盗塁という「足」だけのプレーで史上初のMVPを受賞するという快挙を成し遂げました。

通算盗塁世界記録樹立:ルー・ブロックを超える939盗塁

シーズン盗塁記録の達成から11年後の昭和58年6月3日、福本選手は西武ライオンズ戦の9回に三盗を成功させ、MLBのルー・ブロック選手が持つ通算938盗塁のMLB記録を抜き去る、939盗塁を達成しました。この偉業により、福本豊選手は「世界の盗塁王」としての地位を不動のものとし、その名は日本のプロ野球史のみならず、世界の野球史に深く刻まれることとなりました。彼の足が、どれほど多くのファンを熱狂させ、野球の面白さを広めたか計り知れません。

結論

福本豊選手が打ち立てた数々の盗塁記録は、単なる数字の羅列ではありません。それは、彼がいかに卓越したスピードと技術、そして何よりも野球への情熱を持っていたかを物語るものです。ドラフト下位指名から「世界の盗塁王」へ駆け上がった彼のキャリアは、努力と挑戦の象徴として、今もなお多くの人々に勇気を与え続けています。昭和のプロ野球が生み出したこの偉大な記録と、その裏側にあった物語は、野球が持つ普遍的な魅力と、時代を超えて語り継がれるべきレジェンドの存在を私たちに教えてくれます。

参考文献

  • 別冊宝島編集部『永久保存版 嗚呼、青春の昭和プロ野球 心震えた名場面とその舞台裏』