90歳現役社長・郡山史郎氏が明かす「今が一番働く幸せ」―ソニー時代から続く人生の転機と哲学

1935年生まれの郡山史郎氏は、90歳を迎えた今もなお代表取締役社長として週5日会社に通勤する、まさに現役のビジネスマンです。ご本人は「人生で今が一番働くことに幸せを感じている」と語ります。ソニーで役員を務め、関連会社の社長に就任するなど華々しい経歴を持つ郡山氏が、なぜ「今」を最も幸せだと感じるのか。本稿では、彼の歩んできた道のりと、その哲学を紐解きます。定年後も生き生きと働き続ける「シニアフレッシュマン」という概念を提唱する郡山氏の言葉から、人生100年時代における新たな働き方と幸福の本質を探ります。

郡山史郎氏の輝かしいキャリアと「シニアフレッシュマン」の提唱

郡山史郎氏は、一橋大学経済学部を卒業後、伊藤忠商事を経て1959年にソニーへ入社しました。ソニー創業者の井深大氏と盛田昭夫氏、二人の偉大な経営者から人生観と仕事において多大な影響を受けます。特に、通訳を任されるほど井深氏から厚い信頼を得ていたと言います。

1973年に一度ソニーを離れるものの、1981年に再びソニーに戻り、取締役情報機器事業本部長、常務取締役経営戦略本部長、資材本部長、物流本部長、ソニーPCL株式会社代表取締役社長、会長を歴任するなど、要職を歴任しました。退職後の2004年には69歳で人材紹介会社CEAFOMを設立し、代表取締役に就任。現在もその職を務めています。

90歳で現役社長を務める郡山史郎氏。ソニーでの経験を活かし、精力的に働く姿が彼のビジネス哲学を象徴している。90歳で現役社長を務める郡山史郎氏。ソニーでの経験を活かし、精力的に働く姿が彼のビジネス哲学を象徴している。

郡山氏は、定年退職後も生き生きと働き続けられる人々を「シニアフレッシュマン」と名付け、この概念がシニア世代に浸透することで、高齢者の働き方改革につながると考えています。定年後の働き方一つで、その後の人生の幸福度が大きく変わる。郡山氏が掴んだ「高齢になってもビジネスマンとして働く幸せ」とはどのようなものなのでしょうか。

郡山氏を形作った三つの人生の転機

郡山氏の人生には、三つの大きな転機がありました。

1. 戦争体験とアメリカへの好奇心

鹿児島県指宿市で生まれた郡山氏は、幼少期を軍国主義一色の時代に過ごし、小学校4年生の頃には手榴弾の投擲訓練を受けていました。ある日、皮膚炎を患った妹と共に温泉宿へ向かう途中、米軍の飛行機から銃撃を受け、九死に一生を得ます。

その際、低空飛行する米軍操縦士の「白い顔」を見た郡山氏は、小学校の担任教師をはじめ多くの知人を戦争で失った敵国であるにもかかわらず、「憎きアメリカ社会を体験してみたい」という強烈な好奇心を抱くようになりました。戦争体験のトラウマと、アメリカに対するこの好奇心こそが、若き日の郡山氏を突き動かした原動力となります。

2. ソニーとの出会いと創業者の薫陶

大学卒業後、アメリカで働くことを志し伊藤忠商事に入社するも、国内販売部門に配属され落胆の日々を送ります。そんな中、新聞で「貿易要員、急募」というソニーの広告が目に留まりました。1955年に日本初のトランジスタラジオを販売し、世界市場へと販路を拡大していたソニーに、24歳で入社を決意します。

念願の海外業務を期待するも、配属されたのは輸入商品の国内販売を行う輸入課でした。しかし、この挫折が彼の二番目の転機となります。ソニー創業者である盛田昭夫氏と井深大氏から通訳を頼まれるようになったのです。郡山氏は「ラ・サール高校と一橋大学で英語とフランス語を学びましたが、伊藤忠では『使い物にならない』と言われたレベルが、ソニーでは『すごい』と驚かれ、社長や会長の通訳まで務めることになった」と当時を振り返ります。

3. 井深大と盛田昭夫から学んだ経営哲学

通訳として間近で井深氏と盛田氏に接した経験は、郡山氏のその後の人生に多大な影響を与えました。

井深大氏は「人というのは、人の役に立つ、国の役に立つことが大事」という人格主義者でした。「日本のため」「国益第一」「国を維持すること」が働く目的だと語り、ソニーでは「弱者の保護の度合いが文明の進歩の度合いを測る」という観点から、ハンディキャップのある人も積極的に雇用していました。好奇心旺盛で、「面白い」を重視する井深氏のモットーは「多くの人が喜ぶものを作れ」でした。

一方、盛田昭夫氏は目的のために手段を選ばない一面があり、危機や逆境に非常に強かったと言います。「ビジネスに失敗はつきもの」という信念を持ち、「たまにうまくいく。少しうまくいくのがビジネスだよ」という言葉から、郡山氏はチャレンジ精神の重要性を学びました。「現在は未来のために使う」「自分の評判は大切にしておけ」など、盛田氏の言葉はビジネスマンとしての郡山氏の心に今も生き続けています。

その後、郡山氏はスイス駐在を経て、1964年に29歳で家庭用VTRの販売のためアメリカ赴任を命じられます。井深氏の「構想」と盛田氏の「実行」が一体となり、日本の電子産業が世界市場を制覇しようとしていた時代に、彼はその最前線にいました。

経験と知恵がもたらす「働く幸せ」

郡山史郎氏の人生は、戦争という極限状況から生まれた好奇心、そして二人の偉大な創業者との出会いという転機を経て、常に学びと挑戦を続けてきた軌跡です。ソニーでの輝かしいキャリアを築き、退職後も新たな事業を立ち上げ、90歳にして現役社長として「今が一番幸せ」と語る彼の言葉には、私たち現代人が見習うべき知恵が詰まっています。

郡山氏が提唱する「シニアフレッシュマン」という概念は、高齢になっても自身の経験と知恵を社会のために活かし、働きがいを見出すことの重要性を示唆しています。彼の生き方は、年齢に関わらず好奇心を持ち続け、変化を恐れず挑戦し、常に人の役に立つことを考える姿勢こそが、人生の幸福度を高める鍵であることを教えてくれます。

〈文中敬称略〉

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