日本の教育現場を支える「学習指導要領」は、およそ10年ごとに改訂され、2030年度には新たな要領が導入される見込みです。現在、中央教育審議会でその改訂に向けた議論が活発に行われていますが、喫緊の課題として浮上しているのが、教員の多忙化と密接に関わる「標準授業時数」の多さです。現場からは授業時数の削減が強く求められる一方で、教育課程に柔軟性を持たせる「裁量的な時間(仮称)」案も提示されています。名古屋大学名誉教授の植田健男氏は、「最重要課題は、教育課程づくりを学校と教員の手に取り戻すことだ」と指摘し、単なる時数削減や弾力化を超えた、より本質的な議論の必要性を訴えています。
文部科学省の「裁量的な時間」案と標準授業時数の課題
次期学習指導要領の改訂作業は、今年1月30日に中央教育審議会の教育課程企画特別部会が初会合を開き、本格的にスタートしました。この特別部会では、「カリキュラムオーバーロード」、すなわち学習指導要領で定められている標準授業時数の過多が大きな問題として議論されています。実際、現行の2017年の要領に至るまで、標準時数は増加の一途を辿っており、多くの学校で実際の授業時数がこれを上回る状況が常態化しています。
過密な学習指導要領と教員の多忙化に直面する学校現場の様子
これに対し、文部科学省の阿部俊子文科相は、3月4日の記者会見で「あらゆる機会を捉えて、引き続き指導助言を行う」と述べ、授業時数の是正方針を示唆しました。しかし、多忙化の根本原因である標準授業時数そのものの削減には明確に言及していません。一方で、文科省は特別部会に対し、標準授業時数をある程度減らし、その分を学校が独自に開発する教科を含む他教科に充てる「裁量的な時間(仮称)」案を提示しています。この案に対しては、根本的なカリキュラムオーバーロードの解消には繋がらないとの批判的な見解も聞かれ、議論は深まっています。
教育課程の主導権を取り戻す:学校と教員の創造性
名古屋大学名誉教授の植田健男氏は、今回の改訂における最大の課題を「教育課程をめぐる問題」だと強調します。一般に教育課程とは、各教科の内容や授業時間を指すと思われがちですが、植田氏はそれを否定します。植田氏が定義する教育課程とは、「国語で何を教えるのか、その授業時間を年間何時間確保するか」といった教科内容の計画にとどまらず、教科外の行事も含め、学校が地域や子どもたちの実態に即して、どのような教育活動を展開するかという、教育の目的や目標を達成するために編成される包括的な教育計画そのものです。
現在の日本の学校教育が抱える問題は、文部科学省の定めた学習指導要領を絶対的なものとして捉え、それに従うことで事足りるという考え方に陥り、各学校独自の創意工夫に富んだ教育課程を持たなくなってしまっている点にあると植田氏は指摘します。戦後初めての学習指導要領は1947年に公布され、1951年に改訂版が出されましたが、これらは「試案」と明記されており、あくまで「教育課程の基準」としての位置づけでした。その「序論」では、教師が地域や児童の特性を理解し、教育の内容や方法を工夫して目的を達成するよう促していました。
しかし、1958年の改訂で文部省(当時)が「法的拘束力がある」との解釈を示して以来、学習指導要領は「一つの動かすことのできない道」となり、国が教育を支配する体制が強化されました。この体制をさらに強固にしたのが、文部科学省が1956年から開始した全国規模の学力調査です。これは「学習指導要領どおりの教育が行われているかを確かめるためのテスト」として位置づけられました。競争激化などの問題から1966年に中止されたものの、2007年には「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)として復活し、その目的は学習指導要領を絶対とする体制の強化にあるとされています。さらに、大学受験においても、1979年の「大学共通第1次学力試験」から現在の「大学入学共通テスト」に至るまで、名称や制度は変わっても、学習指導要領が守られているかを確認する目的は一貫しています。
まとめ
次期学習指導要領の改訂議論は、教員の過重労働やカリキュラムオーバーロードという喫緊の課題に直面しています。文部科学省が提案する「裁量的な時間」は、柔軟性をもたらす可能性を秘める一方で、根本的な解決には至らないという指摘もあります。本質的な問題は、戦後当初の理念が失われ、学校や教員が自らの地域や子どもたちの実態に合わせた独自の教育課程を創造する機会が奪われている点にあると言えるでしょう。教育の質を高め、真に子どもたちに寄り添った学びを実現するためには、学習指導要領の絶対的な位置づけを見直し、学校と教員が教育課程づくりの主導権を取り戻すことが不可欠です。この改訂が、日本の教育の未来を形作る重要な転換点となることが期待されます。
出典: Yahoo!ニュース (東洋経済education × ICT掲載記事)