長崎に原爆が投下されてから、間もなく80年を迎えようとしています。その原爆と深い関係を持つ町が、アメリカのワシントン州に存在します。コロンビア川のほとりに位置し、約6万人以上が暮らすリッチランド。この緑豊かな自然に囲まれた町は、第二次世界大戦中のある選択によって、その運命を大きく変えました。
ワシントン州リッチランドの核関連施設を示す街並み。長崎原爆開発の歴史を持つ町の現在の様子。
リッチランド:核の歴史と共存する日常
リッチランドの街を歩くと、その歴史が生活に溶け込んでいることが分かります。町の通りには核に関連する名称が使われ、地元のブルワリーでは核を思わせるモチーフがデザインに取り入れられています。かつて少数の先住民族が暮らす静かな土地だったこの町に転機が訪れたのは、太平洋戦争の最中でした。アメリカ政府は、原爆開発計画の一環としてこの地をプルトニウム精製の拠点に選定。後に長崎に投下されることになる原爆の燃料となるプルトニウムを生産するため、広大な核施設群が建設されました。
プルトニウム生産がもたらした町の繁栄
全米から集められた多くの労働者たちは、アメリカ政府によって豊かな生活を保障され、リッチランドは急速な発展を遂げました。「リッチランドは退屈知らず。成人住民の過半数を22歳から44歳が占め、若い世帯が住むには理想的な町です」という当時の言葉が残るほど、この地は活気に満ち溢れていきました。戦後、長崎で7万3000人以上もの尊い命が奪われた事実が知られてもなお、原爆開発はリッチランドにとって繁栄をもたらした「象徴」であり続けました。現在も、多くの住民はその歴史を受け入れ、誇りさえ感じています。
住民の一人は、「故郷の歴史をどう受け止めているか」という問いに対し、「愛しています」と答えました。また別の住民は、「いまの町があるのは、原爆開発のおかげです」と述べています。
冷戦期以降も続く役割と元エンジニアの視点
長崎への原爆の燃料を精製した施設は、その後も核開発の主要な舞台として機能し続けました。冷戦下においてアメリカとソ連の軍拡競争が激化する中、リッチランドの施設は核兵器開発の最前線であり続けたのです。戦後も原子炉の建設にエンジニアとして携わったデル・バラードさん(95)は、原爆に対する複雑な思いを語りました。
デル・バラードさんは「原爆が町に遺した功罪は」という問いに対し、「決して開発されるべきではなかったという感情もあるでしょうが、開発されたのは事実です」と答えました。80年を経て原爆に対する考え方に変化があったか尋ねられると、彼はこう述べました。「開発当初は、必要な“道具”と考えられていた。いまでも抑止力として機能し、そう意味で必要だと思います。世界中に存在することが望ましいかといえば、望ましくはない。不幸な話ですが、それが現実です」。
複雑な歴史を抱える町の現在
長崎への原爆投下から80年という節目を迎えるにあたり、ワシントン州リッチランドは、単なる核開発の地ではなく、その歴史が生み出した繁栄と、核兵器が持つ複雑な現実とを同時に抱えながら歩み続ける町として存在しています。住民たちの声、そして元エンジニアの証言は、核兵器の「功罪」と「抑止力」という多面的なテーマを浮き彫りにしています。この町の物語は、世界の平和と核兵器の未来について、私たちに問いかけ続けています。