日本で育ち働いた外国人も対象に:入管が帰国を強いる事例と在留資格問題の深層

近年、日本社会における外国人や移民に対する関心が高まり、政府の政策や世論の動向が注目されています。埼玉県知事がトルコとの相互査証免除協定の一時停止を求めたり、政治家が海外の極右政党と会談したりするなど、「外国人問題」を巡る動きは活発化しています。しかし、その一方で、日本で生活し、人生を築いてきた外国人が日々抱える感情や、入管制度の狭間で直面する困難な現実に目が向けられることは少ないのが実情です。

本記事では、ジャーナリスト・記者の平野雄吾氏の著書『ルポ 入管――絶望の外国人収容施設』(2020年、ちくま新書)から、神奈川県厚木市で育ち、家族を持ったイラン人男性の事例を抜粋し、日本の入管問題と在留資格の複雑な現実について深く掘り下げていきます。長年日本で暮らしてきた外国人が、なぜ故郷と化した場所を追われる危機に瀕するのか、その背景と個人の苦悩に迫ります。

日本の入管施設や関係機関の建物。在留資格を失った外国人が強制送還の危機に直面する場所の象徴。日本の入管施設や関係機関の建物。在留資格を失った外国人が強制送還の危機に直面する場所の象徴。

イラン人セイフォラの葛藤:日本で築いた家族と「お前」という言葉

2018年冬、神奈川県厚木市のある寝室で、イラン人男性セイフォラ・ガセミ(50)は衝撃的な言葉に耳を疑いました。長男ファルハッド(16)が、泣きながら発した「お前たちのせいで、こうなったんだろ」という言葉です。息子から「お前」と呼ばれることはこれまでに一度もなく、セイフォラは一瞬我を失いました。その場を収めようと会話を打ち切ったものの、自身に非があることは理解しつつも、この絶望的な状況を打開する術がないという無力感に苛まれました。隣に座る妻のリリアナ(49)が「何とかなる」と口にしても、不安は募るばかりでした。

夢を追って日本へ:イラン・イラク戦争後の来日とビザ免除の時代

セイフォラは1992年2月、23歳でイランの首都テヘランから単身日本へやってきました。1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争に従軍し、テヘランに戻ったものの仕事が見つからず、家族を養うために海外での出稼ぎを決断したのです。彼は9人兄弟の5番目で、父親はすでに他界していました。

当時の日本政府とイラン政府は相互の査証(ビザ)免除協定を結んでおり、イラン人の来日は非常に容易でした。このため、1989年に1万7050人だった来日イラン人は、1990年には3万2125人、1991年には4万7976人と急増しました。戦争後の経済的困窮にあえぐイラン人にとって、バブル景気に沸き、深刻な人手不足に悩まされていた日本の労働市場は魅力的に映ったのです。多くのイラン人が15日間の短期滞在ビザで来日し、そのまま不法残留となり、建設現場や工場で働きました。この急増する不法就労を受け、日本政府は1992年4月に査証免除協定を打ち切りました。その影響は甚大で、1993年の来日イラン人は一気に4389人に激減しました。セイフォラは、イラン人が自由に日本へ来日できた、このわずか4年間の「出稼ぎブーム」の終盤にやってきた労働者の一人だったのです。

厚木での新たな生活と家族の誕生:日本社会との関わりの中で

来日後、セイフォラは工事現場での日雇い労働などを経て、1998年には友人のイラン人と共に神奈川県厚木市で自動車の板金塗装会社を立ち上げました。約500万円を投資し、約80坪の土地に建物や設備を整え、事業は順調に軌道に乗り始めます。二人で分けたとしても、毎月一人あたり50万~80万円もの収入を得られるようになり、イランの家族には毎月10万~15万円を送金していました。この頃、セイフォラは同じく不法残留の状態にあった日系ボリビア三世のリリアナと知り合い、共に暮らし始めました。

2002年3月7日、二人の間に長男ファルハッドが神奈川県立厚木病院(現・厚木市立病院)で誕生しました。体重3800グラムの待望の男の子の誕生に、セイフォラは胸を躍らせ、出生届を提出しました。すると、厚木市役所はリリアナとファルハッドの国民健康保険への加入を認め、さらに出産育児一時金35万円まで支給したのです。もっとも、二人の健康保険は2年後に打ち切られることになります。

突然の摘発と収容:在留資格問題への意識と現実

セイフォラは当時の心境を悔しそうに振り返ります。「当初、ビザ(在留資格)についてはあまり意識していませんでした。市役所で外国人登録ができたし、外国人登録証があると、警察に職務質問されても問題は起きません。ただ、息子の小学校入学前にビザの問題を解決したいと思い、行政書士に相談していました。入管当局に提出する妻の父の戸籍謄本とかを準備していたところ、摘発されてしまったんです」。

2008年5月、セイフォラの厚木市の会社に、神奈川県警と東京入国管理局横浜支局(現・東京出入国在留管理局横浜市局、横浜市金沢区)が踏み込みました。セイフォラは入管難民法違反(不法残留)容疑で摘発され、そのまま収容されることになったのです。日本で働き、家族を築き、社会の一員として生活を送っていた彼にとって、この摘発は突然の終わりを意味しました。

結論:当事者の声から見つめる入管問題の複雑性

イラン人男性セイフォラ・ガセミ氏の事例は、日本の入管制度が抱える複雑な現実を浮き彫りにします。長年にわたり日本で生活基盤を築き、家族を持ち、社会に貢献してきた人々が、ある日突然、在留資格の問題で強制送還の危機に直面する。そして、その影響は当事者だけでなく、日本で生まれ育った子どもたちにも及び、深い心の傷を残します。

「外国人問題」という言葉が政治的議論の対象となる中で、本記事で紹介したような個々の外国人、移民が直面する具体的な困難や、彼らが抱く感情に目を向けることは不可欠です。彼らの生活の裏側にある物語を理解することで、より深く、多角的に日本の入管問題、ひいては多文化共生社会のあり方について考えるきっかけとなるでしょう。この問題は、単なる法的な問題に留まらず、人間の尊厳と家族の絆に関わる普遍的な課題なのです。

参考文献

  • 平野雄吾 (2020) 『ルポ 入管――絶望の外国人収容施設』 ちくま新書.