太平洋戦争のさなか、連合軍と日本軍が激しく衝突したレイテ沖海戦は、「史上最大の海戦」と称される歴史的な出来事です。この未曽有の戦いにおいて、重巡洋艦「妙高」の機関兵として乗艦していた吉井利夫氏は、戦艦「武蔵」が沈没する壮絶な光景を目の当たりにしました。ノンフィクション作家・早坂隆氏の著書『戦争の肖像 最後の証言』に記されたその一部始終から、レイテ沖海戦の重要性と、戦場の生々しい証言を紐解きます。
捷一号作戦:日本本土防衛をかけた「天王山」の決断
昭和19年10月、アメリカ軍の日本本土への接近が現実味を帯びる中、日本軍はフィリピンでの最終決戦を企図しました。この戦略は「捷(しょう)一号作戦」と命名され、「天王山」と位置付けられます。「捷」とは「戦いに勝つ」という意味が込められており、この戦いが日本の命運を握ることを示唆していました。
フィリピンを失えば、次なる攻撃対象は沖縄となり、さらに南方からの資源輸送路が完全に遮断されることは避けられません。日本側にとって、フィリピンは文字通り全力を挙げて守るべき極めて重要な要衝でした。同時に、この戦いで米軍に甚大な損害を与え、有利な条件での講和に繋げたいという切実な思惑も存在しました。
一方、3年前に日本軍によってフィリピンを追われたダグラス・マッカーサー陸軍大将(後に陸軍元帥)にとって、同地の奪還は個人的な悲願であり、「アイ・シャル・リターン」の誓いを実現する機会でもありました。この決戦に際し、日本海軍は世界最大級の戦艦「大和」や「武蔵」を中核とする第一遊撃部隊を編成。吉井氏が乗艦していた「妙高」は、この部隊の第五戦隊旗艦として参加し、栗田健男中将が指揮を執りました。
レイテ島上陸と栗田艦隊の迎撃作戦
「大和」と「武蔵」は姉妹艦であり、日本海軍が誇る世界最大級の戦艦としてその威容を誇っていました。吉井利夫氏は、かつて両艦のいずれかに乗艦した際の印象を次のように語っています。「どこでだったか忘れましたが、『大和』か『武蔵』のどちらかに乗せてもらったことがあります。甲板がとにかく広くて驚きました。『キャッチボールできるな』と思ったのを覚えています」。その巨大さが、当時の関係者にいかに強烈な印象を与えたかが伺えます。
1941年、宿毛湾沖での公試中の戦艦大和。太平洋戦争における日本海軍の象徴的存在
昭和19年10月20日、米軍とオーストラリア軍から成る連合軍は、フィリピン中央部の要衝であるレイテ島への大規模な上陸作戦を開始しました。その兵力は実に延べ約20万人に及び、連合軍は島内の各地で優勢に戦闘を進め、同日のうちにマッカーサーも無事上陸を果たし、彼の「アイ・シャル・リターン」という誓いはついに現実のものとなりました。
これに対し、日本軍、特に海軍は、第一遊撃部隊などの主力艦隊をレイテ島東岸のレイテ湾に突入させ、湾内に集結する米軍の上陸部隊と輸送船団を一挙に殲滅する大胆な作戦を採りました。この作戦こそが、吉井利夫氏が「武蔵」の沈没を目撃することとなる、史上稀に見る激戦の幕開けとなったのです。
結論
レイテ沖海戦は、太平洋戦争末期における日本と連合軍の運命を左右する決定的な戦いであり、その規模と戦略の複雑さは「史上最大の海戦」と称されるにふさわしいものでした。戦艦「武蔵」の撃沈という悲劇的な出来事は、その後の戦局に大きな影響を与え、多くの人々の記憶に深く刻まれています。吉井利夫氏のような機関兵の証言は、単なる歴史的事実を超え、戦場の実相と、そこで生きた人々の感情を今に伝える貴重な記録です。これらの証言を通して、私たちは戦争の教訓と平和の尊さを改めて深く考えることができます。
参考文献
- 早坂隆. (2025). 『戦争の肖像 最後の証言』. ワニ・プラス.
- Yahoo!ニュース. (2025年8月10日). 「太平洋戦争「史上最大の海戦」レイテ沖海戦を機関兵が目撃した「武蔵」撃沈の光景」. https://news.yahoo.co.jp/articles/c51d52b4058bed91a83be0d2cfbead2f35242f57