日航123便墜落事故:藤岡市民体育館、520人の「遺体安置所」となった悲劇の現場

1985年8月12日、日本航空123便の墜落事故は、520人もの尊い命が失われるという、航空史上最悪の単独機事故として日本の歴史に深く刻まれました。その悲劇の規模は、墜落現場での救助活動だけでなく、犠牲者の遺体収容と身元確認のプロセスにも色濃く影を落としました。本稿では、当時のジャーナリスト米田憲司氏の新刊『日航123便事故 40年目の真実』(宝島社)からの抜粋を基に、遺体安置所として使用された群馬県藤岡市民体育館での筆舌に尽くしがたい状況と、事故後の混乱の中で奮闘した人々の姿を伝えます。

日航123便墜落事故後の遺体収容作業や現場の緊迫した様子を示すイメージ写真日航123便墜落事故後の遺体収容作業や現場の緊迫した様子を示すイメージ写真

墜落現場から藤岡への遺体搬送と検視作業

事故発生から2日後の8月14日午前9時40分すぎ、御巣鷹の尾根で始まった犠牲者の遺体搬送作業は、想像を絶するものでした。自衛隊はヘリコプターの離着陸が可能なヘリポートを尾根に造成し、傾斜のある地形を水平に整地して、まさに「相撲の土俵」のような場所を設営しました。この場所は後に拡張され、事故から1年後には慰霊碑「昇魂之碑」が建立される広場へと変わります。

収容された遺体は、収納袋に入れられ、順次群馬県藤岡市へと搬送されました。群馬県警高崎警察署の飯塚訓氏の著書『墜落遺体御巣鷹山の日航機123便』(講談社、1998年6月刊)によると、検視と確認のため、遺体は五体すべてが揃った「完全遺体」、上下半身の一部が残存している遺体、頭部の一部が胴体と繋がっている遺体、そして頭部や顔面、顎部などが完全に離断している「離断遺体」に厳密に分類されました。身元が確認された遺体は藤岡高校に、未確認遺体は藤岡工業高校と藤岡女子高校にそれぞれ安置され、その後の過酷な身元確認作業の舞台となりました。

ジャーナリストが見た悲劇の最前線:取材拠点移動の舞台裏

事故発生直後から墜落現場で取材を続けていた報道陣は、遺体収容作業の進展に伴い、遺族の動向を確認するため藤岡市へと重点を移さざるを得ませんでした。上野村の三岐から藤岡市までの移動は、中里村、万場町、鬼石町を経由し、片道2時間から2時間半を要する過酷な道のりでした。これにより、取材現場は墜落現場、事故対策本部、そして藤岡市民体育館の3か所に分散し、報道陣の負担は増大しました。

三岐にあった前線本部では、堀川さんの自宅の電話を借り上げ、さらに臨時電話も設置して原稿や写真の送稿に利用していました。事故から4日目には、1週間程度で交代要員が必要になることが予測され、本局との間で今後の取材態勢について協議が開始されました。報道チームは、三岐の前線本部の期間を限定し、その後は電話連絡事務所として残し、本格的な前線本部を藤岡市へ移すことを提案しました。この提案が受け入れられ、共産党群馬県委員会の協力を得て、幸いにも藤岡市議会議員の高橋恒男氏宅の離れを借りることができました。これにより、三岐からの長距離移動は数日で終わりを告げ、議員宅の離れの隣には食堂があったため、食事の心配もなくなり、取材活動の環境が大きく改善されました。

まとめ

日航123便墜落事故における藤岡市民体育館での遺体安置の状況は、未曾有の悲劇を物語る一面であり、関係者が直面した困難と、その中で行われた懸命な対応を浮き彫りにします。報道陣もまた、過酷な現場で情報伝達の使命を果たし、その活動は事故の全貌を伝える上で不可欠でした。この事故が残した深い傷跡と教訓は、現在も日本の社会に影響を与え続けています。

参考文献

  • 米田憲司 著, 『日航123便事故 40年目の真実』, 宝島社.
  • 飯塚訓 著, 『墜落遺体御巣鷹山の日航機123便』, 講談社, 1998年6月刊.