宮崎勤事件の全貌:警視庁が解き明かしたDちゃん誘拐殺人事件

1988年から1989年にかけ、昭和から平成へと時代が移り変わる中で日本社会を震撼させた「宮崎勤事件」こと連続幼女誘拐殺人事件。埼玉県での犯行を重ねていた宮崎勤死刑囚(2008年死刑執行、享年45)が東京都で新たな犯行に及んだことで、警視庁捜査第一課が本格捜査を開始しました。今回はDちゃん誘拐殺人事件を契機に、この残忍な事件の真相と犯人逮捕に至る経緯を詳述します。

日本の社会を震撼させた「宮崎勤事件」の犯人、宮崎勤死刑囚の顔写真日本の社会を震撼させた「宮崎勤事件」の犯人、宮崎勤死刑囚の顔写真

Dちゃん事件発生と警視庁の初期捜査

平成元年6月6日午後6時ごろ、東京都江東区の保育園児Dちゃん(5歳)が行方不明となりました。家族や近所の住民による必死の捜索にも関わらず発見できず、午後8時40分ごろ、母親が近くの交番に届け出ます。

この通報を受け、所轄の深川警察署は直ちに警察官を非常呼集。誘拐事件を担当する警視庁捜査第一課特殊班から異動してきたばかりの刑事課長は、すぐにかつての同僚に連絡を入れ、Dちゃん宅への「秘匿潜入」を試みるなど、迅速な初動捜査を展開しました。現場周辺には運河があることから水上警察署の警備艇や警察犬も動員されましたが、Dちゃんの行方は依然として掴めないままでした。

捜査の進展:「埼玉の事件」との関連性とプロの指揮

翌7日、深川署長は居並ぶ幹部を前に、「埼玉の事件も視野に入れて捜査した方がよいのではないか」と進言。この“予感”はわずか5日後に的中します。「埼玉の事件」とは、前年8月から埼玉県西部で幼女3人が相次いで行方不明となり、うち1人は遺体で発見、さらに別の1人は遺骨を焼かれて段ボール箱に詰められ被害宅に送りつけられるという、極めて異常な連続事件でした。

警視庁捜査第一課からは殺人担当の捜査員と鑑識課員が私服で派遣され、Dちゃんの最後の目撃情報がある現場一帯で指紋採取やたばこの吸い殻などが押収されました。私服での活動は、犯人が現場周辺を観察し警察の動きを察知することを避けるため、身代金目的誘拐の可能性も視野に入れた慎重な捜査の一環でした。

このDちゃん事件の捜査を指揮したのは、警視庁捜査第一課殺人犯捜査第5係長・小野田賢二警部です。彼は、過去に「深川通り魔殺人事件」で捜査第一課特殊班員として犯人・川俣軍司を逮捕した経歴を持つ、警視庁が誇る特殊班捜査のプロフェッショナル。このDちゃん誘拐殺人事件において、小野田警部は殺人担当の係長として、後に日本の犯罪史に名を残す重要な捜査を指揮することになります。

宮崎勤死刑囚による残忍な犯行と遺棄

宮崎死刑囚は、Dちゃんに対し「写真を撮ってあげる」と声をかけ車に誘い込み、その場で首を絞めて殺害しました。犯行から2日後の6月8日午後11時ごろ、彼は自宅の自室でDちゃんの遺体をノコギリで頭部、両手、両足を切断するという、常軌を逸した行為に及びます。

そして同日午前0時ごろには、胴体部分を飯能市内の霊園にある簡易トイレのそばに、他の部位は五日市町(現・あきる野市)内の杉林に遺棄しました。これらの非道な遺棄行為が、後の彼の逮捕へと繋がる決定的な手がかりとなったのです。

結び

「宮崎勤事件」は、昭和から平成へとまたがる時代に日本社会に深い傷跡を残しました。警視庁がDちゃん誘拐殺人事件の捜査に着手し、埼玉県での事件との関連を見抜いたことが、宮崎勤死刑囚逮捕への大きな転換点となりました。小野田賢二警部ら捜査員の執念と専門性が、この残忍な事件の全貌解明と犯人逮捕に貢献したのです。