旧日本軍兵士が「戦死」や「生死不明」と家族に伝えられる際、「戦死公報」という通達が用いられました。しかし、激戦地や混乱の激しい地域では正確な状況把握が困難を極め、公報が出された後に無事生還を果たすという、まさに奇跡と呼ぶべき事例が少なからず存在しました。
「生きていた英霊」千人超:混乱の中で伝えられた誤報の真実
終戦から25年が経った1970年8月の「週刊新潮」は、厚生省援護局(現在の厚生労働省社会・援護局)の統計に基づき、こうした「生還」を果たした兵士が「1000人を下るまい」と報じました。東京五輪から6年、大阪万博が開催され、高度経済成長期の終盤にあたる当時、社会には活気が満ち、戦争の記憶は少しずつ薄れ始めていた時期です。しかし、「週刊新潮」は、そのような時代背景の中、改めて「戦死」や「生死不明」から帰還した人々、あるいはその関係者から直接話を聞き、彼らの生々しい戦争の記憶と言葉を伝えました。
戦後の舞鶴港で、帰還した日本兵を迎える家族や市民たち。興安丸から降り立つ人々の姿は、多くの「戦死公報」が出た後も生きていた兵士たちの帰還を象徴する。
山を愛した清水清吉さんの数奇な運命
群馬県出身の清水清吉さんも、そうした奇跡的な生還者の一人でした。中島飛行機の工場で働きながら、趣味のピッケル作りと休日の谷川岳登山を唯一の楽しみにしていた山好きの青年です。1944年、「赤紙」(臨時召集令状の俗称)を受け取り、中国北部の華北地域へ出征。翌1945年5月、終戦の年に彼はその地で「戦死」とされ、故郷の村では盛大な村葬が執り行われました。
ところが、その翌年の1946年2月、清水さんは突然、何事もなかったかのように故郷へと帰って来たのです。姉のときさん(当時48歳)は、庭仕事中の父親が田んぼの向こうから黒くボロボロの軍服を着た男が畦道を歩いて来るのを見つけ、その男が「清吉です、ただ今戻りました」と告げた時の驚きを鮮明に語っています。帰還兵の常として、清水さんも帰宅後は「うめえなあ、うめえなあ」と言いながら、一週間ひたすら食べ、そして眠り続けました。しかし、一ヶ月もすると再び“山の虫”がうずき始めたようです。畑仕事の合間を縫って山に登り、1946年9月8日、谷川岳の一ノ倉沢で仲間と共に転落死。享年22歳でした。戦後の谷川岳遭難第1号となった弟について、姉のときさんは「弟には山に登ることしか生きがいがなかったんでしょうから、仕方ない」と、諦めの表情で語っています。
これらの「戦死公報」が出た後の生還の物語は、戦争がいかに多くの不確実性と悲劇、そして予期せぬ奇跡を生み出したかを物語っています。兵士たちの帰還は家族にとって大きな喜びであった一方で、その後の人生にも様々な形で戦争の影を落としていたのです。
参考文献
- 「週刊新潮」1970年8月15日号「『生きていた英霊』千人のなかの明暗さまざま」
- 厚生労働省社会・援護局(旧厚生省援護局)資料