豊田章男会長、GRヤリスDATでニュル24時間完走!トヨタの原点と挑戦の軌跡

世界一過酷と称されるニュルブルクリンク24時間レースが、2025年6月21日から22日にかけて第53回大会を迎えました。この伝説的な舞台で、トヨタ自動車の豊田章男会長(モリゾウ)が自らステアリングを握るGRヤリスDATが、計113周を走り抜き、見事完走を果たしました。モリゾウ氏が「ニュルは原点」と語るように、この挑戦は単なるレースの結果に留まらず、トヨタの「もっといいクルマづくり」の哲学と、その道のりの「原点」を改めて示すものとなりました。

「トヨタがニュルに帰ってきた」:地元からの歓迎とブランドの進化

今回のニュルブルクリンク24時間レースへの復帰は、地元ドイツの新聞でも大きく報じられ、「トヨタがニュルに帰ってきた」と歓迎されました。この記事は、モリゾウ氏に大きな喜びをもたらしました。それは、ニュルブルクリンクがトヨタの挑戦に深い関心と敬意を抱いている証拠だからです。記事には「もしモータースポーツの挑戦がなければ、トヨタというブランドは違った形になっていたかもしれない」と鋭い指摘がありました。この言葉は、まさにトヨタの現状を言い当てています。

ニュルブルクリンク24時間レースをGRヤリスDATで完走した豊田章男会長(モリゾウ)ニュルブルクリンク24時間レースをGRヤリスDATで完走した豊田章男会長(モリゾウ)

実際、トヨタがニュルブルクリンク24時間レースへの挑戦を通じて「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」を追求していなければ、GRヤリスのような革新的な車両は誕生せず、その後のレースやラリーでの目覚ましい活躍もなかったでしょう。モータースポーツへの挑戦は、トヨタのブランドイメージを大きく刷新し、技術開発の重要な推進力となってきたのです。

2007年のニュル初挑戦:モリゾウ氏の原点となった「悔しさ」

モリゾウ氏にとって、ニュルブルクリンクは特別な場所です。彼が初めてニュルブルクリンク24時間レースに参戦したのは、2007年のことでした。当時の彼はトヨタの副社長でありながら、マスタードライバー故・成瀬弘氏の指導のもと、運転の基礎から叩き込まれていました。トレーニングに使用されたのは、なんと中古の80スープラ。欧州の自動車メーカーが最新の新型車で開発走行を行う中、トヨタが用意できたのは「古いスープラしかなかった」という状況でした。

モリゾウ氏は当時の心境を「『トヨタさんにはこんなクルマを作るのはムリでしょう!?』という声が聞こえてくるようでした。とにかく悔しかった」と振り返っています。この「悔しさ」こそが、彼のその後の挑戦とトヨタの変革の原動力となります。成瀬氏は「クルマを鍛え、人を育てるにはレースが一番いい。特に世界で最も過酷なニュルブルクリンク24時間レースは絶好の舞台」と確信し、モリゾウ氏にこの厳しいレースへの出場を強く勧めました。

当時のトヨタは、創業時の精神であった「いいクルマ」をつくることよりも、「売れるクルマ」や「つくりやすいクルマ」を重視する傾向にありました。この現状に危機感を抱いたモリゾウ氏は、「何か行動しなければ」という強い使命感に突き動かされ、ニュル挑戦を決意します。しかし、トヨタの名を使用することは許されず、社内外からの応援も得られず、何をやっても冷ややかな目で見られる逆境の中、モリゾウ氏は24時間を走り切りました。完走の瞬間、彼にあふれ出た涙は、達成感というよりは、むしろ積み重なった「悔しさ」から来るものでした。

「もっといいクルマづくり」への道のり:ニュルが育んだトヨタの哲学

モリゾウ氏が常に語り続ける「もっといいクルマをつくろうよ」という言葉は、この2007年のニュルブルクリンクでの「悔しい」経験が原点にあります。市販車を鍛え、技術者を育成し、そして何よりもお客様に「笑顔」を届けるためのクルマづくり。その全てが、この緑の地獄での厳しい試練から生まれているのです。ニュルブルクリンクは、単なるレーストラックではなく、トヨタの挑戦と成長の象徴であり、未来のクルマづくりの哲学を育む揺るぎない舞台であり続けています。今回の完走は、その哲学が今もなお脈々と受け継がれていることを世界に示したのです。