かつて「山崎邦正」としてテレビのバラエティ番組でその名を馳せた月亭方正氏。今や落語家「月亭方正」として確固たる地位を築き、その芸への評価を日増しに高めています。落語の道へ進んで17年、彼のキャリアにおける転機とは何だったのか、そして若手時代に経験した苦悩とは。自身の芸人人生を振り返るその語り口は、まるで高座のように軽快で、聴衆を引き込みます。
人気芸人から落語家へ転身した月亭方正の真剣な表情
「スベリ芸」という強みと甘え
コンビでの活動からキャリアをスタートさせ、瞬く間に『ABCお笑い新人グランプリ』などの賞を獲得。順風満帆に見えた芸人人生は、コンビ解散を経てピン芸人としての活動へと移行します。この時期に「スベリ芸」という独自のスタイルを確立し、バラエティ番組で活躍の場を広げましたが、やがて大きな壁に直面することになります。
月亭方正氏は語ります。「“スベリ芸”というのは実は非常に強いんです。なぜなら、スベることがないからです。スベることで笑いが取れるという、これは日本独自の文化ではないでしょうか。日本にはそれを笑ってくれる土壌があり、それだけの懐の広さや多様性を含んでいるのが“スベリ芸”なんです。しかし、その“スベリ芸”に甘んじてしまう危険性があります。仕事があり、居場所が用意され、収入も得られる。そこで『これでいいや』という感覚に陥ってしまうのです。完全にそれに満足してしまう自分がいました」。
芸人としての「情けなさ」と転機
そうした状況が続く中、芸人としての自身の立ち位置を深く考えさせられる出来事が訪れました。38歳から39歳頃、立て続けに3本の営業が続いた時のことです。彼の前には次長課長やチュートリアル、後にはブラックマヨネーズや中川家といった人気芸人が登場し、彼らはステージに出れば大爆笑を巻き起こし、勢いよく帰っていきます。
一方で、月亭方正氏がステージに上がると、最初は大きな歓声が上がるものの、徐々に盛り下がり、尻すぼみに終わってしまう。「他の人はドカーンと盛り上げて『お疲れ様でした!』と帰っていくのに、俺は静かに帰るような状況が3回も続いたんです。もう本当に辛くて、情けなかった」。この経験が彼に問いかけました。「20年も頑張ってきて、テレビで多くの人に知られている。最初こそ盛り上がるけれど、それだけ。お客さんの前で、何もできない。これでは芸人とは言えないのではないか。いや、少なくとも俺が目指していた芸人像ではないな、と感じたんです」。
「このままダメ人間、いじられ芸としてテレビで活動を続けていれば、後輩にいじられて食い扶持には困らないだろう。しかし、それは俺が思い描いていた芸人像とは全く違う。この人生で本当に良いのか?という思いが募りました。まさに不惑(40歳)を前にして、『これは変えなければならない』と強く決意したのです」。
新喜劇への模索と新たな発見
その時、彼の頭に浮かんだのはテレビではなく舞台でした。「ここからは舞台だ。新喜劇だ」。そう決意すると、彼はすぐに新喜劇の座長を目指して準備に取り掛かりました。「すぐにでもやりたくて、勉強だと。藤山寛美さんのDVDを全て見て、当時の新喜劇の公演もDVDで研究しました。『すごいな、面白いな』と感じたんです」。
しかし、実際に新喜劇を始めようとしても、すぐに練習や準備ができるわけではありません。「だんだん、『あれ?これ、なんか俺の性格に合ってないわ』と気づくんです。僕の性格は、やりたいと思ったらすぐ動き出す、すぐやるという気質なのです。だから、『これは違うな』と感じたのです」。この模索の先に、新たな道が開かれていくことになります。
結論
月亭方正氏が歩んできた芸人としての道は、輝かしい成功の裏に、自身が理想とする姿との葛藤や深い苦悩が隠されていました。「スベリ芸」という独自の強みが、同時に自身の成長を妨げる甘えを生み出していたことに気づき、舞台での「情けなさ」を経験したことで、彼はキャリアの大きな転換点に立つことになります。新喜劇への一時的な模索は、彼自身の行動原理を再認識させ、真に自身が求める芸の道を深く見つめ直すきっかけとなりました。彼の経験は、多くの人々にとって自己実現とキャリアパスを考える上で示唆に富むものでしょう。
出典:Source link