名古屋城天守の木造復元を巡る長年の議論は、近年新たな局面を迎えています。特に、バリアフリー対策を巡る市民の意見対立が表面化し、事業の進捗に大きな影響を与えています。本記事では、この複雑な状況の背景、現在の動向、そして「復元」という言葉の真の意味にまで踏み込み、名古屋城天守が持つ歴史的価値について深く考察します。日本の象徴的な文化財の未来を左右するこの問題は、単なる建築プロジェクトを超え、現代社会における歴史保存と社会包摂のあり方を問いかけています。
名古屋城天守復元、バリアフリー問題で進捗停滞の背景
2024年の名古屋城入場者数は223万4976人と、記録的な数字を達成しました。しかし、現在、観光の目玉である天守閣は閉鎖されたままです。昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造で外観復元された旧天守は、老朽化による耐震性不足を理由に、平成30年(2018年)5月から入館が禁止されています。
当初、河村たかし前名古屋市長が提唱した木造による史実に忠実な天守復元は、令和4年(2022年)の完成を目指していました。しかし、この事業は予期せぬ停滞に見舞われています。停滞の原因としては、文化財としての保全が求められる石垣の扱いに関する問題も絡んでいましたが、最大の障害となったのは、天守内部のバリアフリー対策を巡る議論でした。特に、車いす利用者をはじめとする障害者からのエレベーター設置の要望が、この議論の中心にありました。
市民討論会と「差別発言」がもたらした影響
事業の遅延を決定的にした出来事の一つが、2023年6月に市が主催した「名古屋城のバリアフリーに対する市民討論会」です。この討論会で、車いすの男性が天守へのエレベーター設置の必要性を主張した際、ある参加者から「(車いすの人は)平等とわがままを一緒にするな。どこまで図々しいの、という話。がまんせいよ、という話なんですよ」という、問題視される発言が飛び出しました。
この発言は社会的な波紋を広げ、市は整備基本計画の文化庁への提出を延期し、「差別発言」問題への対応を最優先で取り組むことを余儀なくされました。結果として、復元事業は一時完全にストップし、その後の進展が注目されることとなりました。
広沢市長の下での新たな動きと課題
長らく停滞していた復元事業に、ようやく動きが見え始めました。2024年8月8日、有識者や障害者福祉団体関係者らで構成される名古屋市障害者施策推進協議会が開催され、名古屋城天守のバリアフリーに関する意見交換が行われました。これに先立つ同年5月、名古屋市は「差別発言」を前提に事業を検証し、今後の方針を示す「総括」をまとめており、そこでは障害者団体との対話姿勢や人権問題への配慮が欠けていたことが認識されていました。
協議会では、障害当事者が事業計画段階から参画すること、そして天守最上階までアクセスできるエレベーターの設置を求める意見が相次ぎました。この場に出席した広沢一郎市長は、一連の経緯について謝罪の意を表明しました。河村前市長は小型昇降機の2階までの設置を提唱していましたが、協議会ではこの方針が「障害者差別を助長した」との意見も出され、障害者が5階まで上がれない再建は許されない、という空気が色濃く漂っています。広沢市長も市議会で「できるかぎり上層階まで設置することにチャレンジする」と発言しており、市は現在、障害者団体や高齢者団体への説明を重ねつつ、5階までの昇降機設置が構造的に可能かどうかを検証しています。木造天守の史実性とバリアフリーの両立を考慮した上で、最終決定が下されることになります。
2023年5月、名古屋城の天守閣と本丸御殿を遠景から捉えた様子。木造復元計画が進行中の歴史的建造物。
「復元」の真の意味、問われる名古屋城天守の歴史的価値
このバリアフリーを巡る議論において、「復元とは何か」という最も肝心な視点が置き去りにされているのではないか、という指摘が専門家から上がっています。広辞苑で「復元」を引くと「もと通りにすること」とあります。名古屋城天守を木造で復元する意味は、まさに焼失前の姿を「もと通りにする」ことにあり、それには十分な歴史的価値があるからに他なりません。
昭和20年(1945年)5月14日、B29爆撃機の焼夷弾によって焼失した名古屋城天守は、数ある天守建築の中でも特に価値が高かったとされています。その歴史的意味を改めて振り返ることは、復元議論の深層を理解するために不可欠です。
名古屋城は、徳川家康が九男義直の居城として命じ、慶長15年(1610年)に工事が始まり、同17年(1612年)に完成しました。当時の国家事業として、西国の大大名20家に請け負わされ、延べ20万人もの人夫が動員された一大プロジェクトでした。これは、当時大坂に健在だった豊臣秀頼を牽制する意味合いも強く、家康の並々ならぬ力が注ぎ込まれた証左です。
完成した天守は、木造部分の高さが36.1メートル、天守台の床面積も広く、豊臣秀吉の大坂城を凌ぐ規模でした。家康が築いた江戸城天守に次ぐ高さで、その後、これを上回ったのは、三代将軍家光が再建した大坂城天守と江戸城天守のみでした。これら二つの天守が17世紀半ばに相次いで焼失して以降、名古屋城天守は長らく日本一の高さを誇り続けました。さらに、4425平方メートルという延べ床面積は史上最大であり、この記録は未だに破られていません。
その堅牢性も特筆すべき点です。壁の厚さは約30センチメートルに達し、欅や樫の分厚い横板が埋め込まれており、史上最高の防弾性能を誇りました。柱などの主要な木材には、高価で耐久性に優れた木曽檜が多用されるなど、建築資材の面からも史上最も豪華な天守であったことが伺えます。これは、天下人・徳川家康という圧倒的な権力者の象徴であったがゆえに実現した、他に類を見ない建造物だったのです。
結論
名古屋城天守の木造復元プロジェクトは、単なる歴史的建造物の再建に留まらず、現代社会が直面する多様な価値観の衝突を映し出しています。歴史的な忠実性を追求する「復元」の理念と、誰もが文化財にアクセスできる権利を保障する「バリアフリー」の要請。この二つの重要な課題をいかに両立させるかは、名古屋市のみならず、日本の文化財保護全体にとって極めて重要な問いかけです。
広沢市長の下で事業再開への道筋が見え始めた今、市は障害者団体との対話を深め、構造的な実現可能性を探りながら、慎重な判断が求められています。その過程で、私たちは名古屋城天守が持つ比類なき歴史的・文化的価値を再認識し、単に「もと通り」にするだけでなく、その本質的な意味を未来へ伝えるための最善策を見出す必要があります。この議論が、真に持続可能で包摂的な文化財保護のあり方へと繋がることを期待します。
参考文献
- 名古屋城天守のバリアフリー「わがまま」発言から見えてきた「復元」の意味 – PRESIDENT Online (Yahoo!ニュース 転載)