大阪・関西万博がついに閉幕しました。2年半前、2023年3月に家族でUSJを訪れた際、ホテルとパークを行き来する車窓から、朝晩に夢洲を通り過ぎた記憶が鮮明に蘇ります。「ここが万博会場になるのか?」と、コンビニが1軒あるだけで他には何もないその場所に驚きを隠せませんでした。コンビニにたむろするバイクの走り屋しかいない夢洲の光景を見て、思わず心の中でエールを送ったことを覚えています。
開幕前の逆風とミャクミャクへの賛否両論
万博は、準備期間中から多くの逆風に晒されました。コロナ禍による混乱、資材の高騰、各国からの協力体制の遅れ、そして最終的には、その可愛らしい姿とは裏腹に、当初は不人気とされた公式キャラクター「ミャクミャク」へのネガティブな報道が続き、開幕前はため息が漏れる日々でした。しかし、私はミャクミャクが大好きで、インスタグラムにも積極的に投稿し「推し活」に励んでいました。そのたびにアンチの方々から「気持ち悪い」といったコメントが書き込まれることもありましたが、なぜそう感じるのか、その気持ちには全く寄り添えず(笑)。「こんなにも可愛いのに、どうしてわからないのかな?きっと万博が始まれば、みんな夢中になるはず!」と、何の疑いもなく信じ続けていました。
「嫌い嫌いも好きのうち」:ミャクミャク人気が証明した人間の複雑さ
そして万博が終わりを迎える頃には、本当に多くの人々がミャクミャクを大好きになっていました。日々、ネットニュースでもミャクミャクの話題でもちきり。かつて「嫌い嫌いも好きのうち」という言葉がよく使われましたが、人間とはかくも複雑で、そして面白いものだと改めて感じさせられました。当初の批判が嘘のように、そのユニークなデザインと愛らしい振る舞いが人々の心をつかんだのです。
初の万博体験:1970年大阪万博からベルギー館へ
今回の万博は、私にとって生まれて初めての体験でした。前回1970年の大阪万博開催時は5歳。私の故郷である愛媛と大阪は近いように思えるかもしれませんが、愛媛県の南端、深い山の中に住んでいた私たち家族にとって、万博は全く縁のないものでした。高速道路も瀬戸大橋もなく、そもそも道後温泉のある松山まで行くのでさえ、いくつもの峠を越えて6時間近くかかっていたように記憶しています。そのため、1970年大阪万博が開かれたことすら、私の記憶にはありません。
今回の万博も、東京からはるか遠い大阪での開催ということで、またしてもご縁がないだろうと考えていました。ところが、なんと開幕直後の5月に仕事で訪れる機会に恵まれたのです。しかも、思いがけないベルギー館での仕事。この貴重な体験が、私の抱いていた万博のイメージを完全に一掃することになりました。実際に現場で肌で感じた活気と、ミャクミャクが人々を惹きつける力を目の当たりにし、万博の真の魅力を知ることができたのです。
大阪・関西万博の会場でミャクミャクと一緒にポーズをとる筆者
万博が教えてくれた、変化する価値観と発見の喜び
大阪・関西万博は、多くの困難と期待の中で幕を閉じました。当初は批判の的となりがちだったミャクミャクが、最終的には万博の顔として愛され、人々の心に残る存在となったことは、現代社会における価値観の変化や、未知のものに対する受容の面白さを象徴しているように思えます。私自身の初めての万博体験も、事前のネガティブな情報とは裏腹に、予期せぬ喜びと発見に満ちたものでした。この万博が、今後の日本の社会や文化にどのような影響を与えていくのか、その動向に注目していきたいと感じています。
参考文献: