はじめに
世界が歴史的な大転換期を迎える中、シンガポール国立大学(NUS)の「アジア地政学プログラム」は、激変する世界経済のダイナミクスを理解しようとする日本のビジネスリーダーや官僚から絶大な支持を得ています。この人気講座を主宰する田村耕太郎氏の著書『君はなぜ学ばないのか?』(ダイヤモンド社)は、私たちがこの不確実な時代を生き抜くために不可欠な「学び」の本質を凝縮した一冊です。本記事では、同書のエッセンスを基に、なぜ多くの新興国が初期の経済発展から真の先進国へと移行できないのか、その根深い構造的な問題と、持続的な成長を実現するための核心的な要素について深く掘り下げていきます。
新興国の経済成長、なぜ持続しないのか?
我々がかつて貧しかった新興国を訪れた時、ピカピカの高層ビル群や瀟洒な国際空港が整備された光景に驚き、日本や韓国が経験したような高度経済成長の入り口にあると錯覚しがちです。しかし、ほとんどの新興国がこの初期段階を超えて真の発展を遂げることはありません。
経済成長の基本公式は、「人口増加×資本×生産性向上(イノベーション)」です。多くの新興国で初期に見られる経済成長は、主に人口増加と外国からの資本流入、そしてそれに伴うインフラ整備によってもたらされます。つまり、外資によって都市インフラが近代化され、増え続ける人口が経済規模を膨らませている状態に過ぎないのです。
今後、先進国が経験したような持続的な高度成長に突入し、「中進国の罠」を脱して真に先進国入りするためには、決定的に不足している要素があります。それが、第三の柱である「生産性向上」、すなわちイノベーションの創出です。
初期の経済成長で高層ビルが整備された新興国の都市風景。持続的発展の課題を暗示する。
産業革命に学ぶ、生産性向上の真髄
イギリスで産業革命が起こった歴史的背景
生産性向上が最も早く起こったのは、18世紀のイギリスにおける産業革命です。当時のイギリスは、世界の歴史においてローマ帝国やアラブ世界から遠く、地中海貿易からも取り残された辺境の地に過ぎませんでした。大航海時代においても、ポルトガルやスペインに遅れを取っての参入でした。
しかし、このイギリスで産業革命が起こったのは興味深い歴史的経緯があります。度重なる王の失政に嫌気がさした貴族や富裕層が、王に対抗する勢力として台頭し、王の権力を制限する動きが強まりました。マグナ・カルタや名誉革命を経て、「君臨すれども統治せず」というイギリスの立憲君主制の原型が確立されたのです。これは産業革命が起こる上で極めて重要な準備期間でした。
技術革新によって生産性向上を実現した商人や貴族は、その余剰生産分を王によって恣意的に取り上げられることなく、自らの私有財産として保有することができました。私有財産権が明確に存在し、それを守るための法執行機関も機能していたのです。
現代新興国におけるイノベーションの阻害要因
対照的に、他の多くの国々では帝王や王が強固な統治体制を整え、国内のいかなる経済活動から生じる余剰生産分をも私物化し、取り上げていました。このため、生産性を向上させようという経済的インセンティブを持つ主体が社会に育ちませんでした。努力して富を生み出しても、それが奪われてしまうのであれば、誰も余剰生産をしようとは考えないからです。
現代の多くの新興国も、このイノベーションの恩恵を受ける段階にはまだ至っていないという印象を田村氏は指摘します。新興国のリーダーたちと、その国の既得権益層とは密接に結びついており、両者が一体となって富を独占している構造が見られます。その結果、本来イノベーションの担い手となるべき有能な若者たちは、その恩恵を享受できる段階にはありません。新しい技術やビジネスアイデアが生まれても、既得権益層によってその成果が吸い上げられたり、競争が阻害されたりする環境では、真の生産性向上は困難となります。
新興国が陥る「負のスパイラル」
このような構造は、新興国を深刻な負のスパイラルへと引き込みます。
- 専制的なリーダーと経済界の既得権益層が、自身の地位保全のためにイノベーション創発に不可欠な土壌づくりを怠る。
- 人口増加と海外からの援助や外資によるインフラ整備によって、初期段階では経済発展が見られるものの、社会に持続的な生産性向上のインセンティブがないため、やがて成長は勢いを失い、「中進国の罠」に陥る。
- 多くの若者に十分な雇用機会を生み出すことができない。
- 多くの人々が老いる前に豊かになる機会を失う。
- 社会の高齢化と人口減少が、経済衰退をさらに加速させる。
- 政治経済が混乱し、社会不安が高まる。
- 富裕層の国外脱出や資産逃避が始まる。
- これに対抗するため、政府が資産凍結や没収といった強権的な暴挙に出る。
- 結果として、国内はますます混乱の度合いを深める。
この負のスパイラルは、一度陥ると抜け出すことが極めて困難であり、国民全体の生活水準と国の未来に暗い影を落とします。
結論
多くの新興国が初期の経済成長段階を超え、「中進国の罠」から脱却し、真に持続的な発展を遂げるためには、単なる人口増加や外国資本の誘致だけでは不十分です。歴史が示すように、私有財産権の保護、法の支配、そしてイノベーションを促すための公正な経済的インセンティブの確保こそが、生産性向上と経済発展の真の推進力となります。日本を含むアジア諸国が世界のリーダーシップを担うためには、新興国が抱えるこれらの課題を深く理解し、持続可能な発展を支援する国際的な枠組みを強化していく必要があります。田村耕太郎氏の指摘は、まさに今、世界が直面するこの重要な地政学的・経済的課題に対する警鐘であり、私たち自身の「学び」の重要性を改めて問いかけるものです。
著者紹介
田村耕太郎(たむら・こうたろう)
シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院兼任教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校グローバル・リーダーシップ・インスティテュートフェロー。元参議院議員。早稲田大学卒業後、慶應義塾大学大学院(MBA)、デューク大学法律大学院、イェール大学大学院修了。ハーバード大学リサーチアソシエイト、ランド研究所研究員を務める。2014年よりシンガポール国立大学で「アジア地政学プログラム」を主宰し、多くのビジネスリーダーを育成。シリーズ累計91万部突破のベストセラー『頭に来てもアホとは戦うな!』など著書多数。世界のテクノロジースタートアップへの投資家としても知られる。