12年前、愛する娘を不慮の事件で失った寺輪悟さん(57)=三重県四日市市=は、当初、事件報道を行うマスコミに対し深い憎しみを抱いていました。悲しみに暮れる遺族の心情を顧みない過熱報道の渦中で、寺輪さんは「なぜ被害者家族が身を隠すような生活を強いられるのか」と憤りを感じていました。しかし、時を経て、あるベテラン事件記者の真摯な姿に触れることで、その不信感は徐々に「共感」へと変化していくことになります。この物語は、事件報道の光と影、そしてメディアと遺族の関係性について深く問いかけます。
悲劇の始まり:15歳の娘を奪われた日
悲劇は2013年8月25日深夜に起こりました。寺輪さんの次女である博美さん(当時中学3年生)は、花火大会からの帰宅途中に行方不明となり、間もなく四日市市に隣接する朝日町の空き地で遺体となって発見されました。死因は窒息で、財布からは現金6000円が抜き取られていました。博美さんは事件のわずか3日前、15歳の誕生日を迎えたばかりでした。
警察署の遺体安置所で変わり果てた娘と対面した寺輪さんは、「ごめん。守ってやれなくて」と泣き叫び、父として何もしてやれなかった自分を責め続けました。この筆舌に尽くしがたい悲しみの中で、寺輪さんは「被害者報道」という現実と向き合うことになったのです。
三重県四日市市にある寺輪博美さんの自宅和室に置かれた遺影と仏壇。事件の悲劇を物語る遺品が並ぶ。
過熱する報道の重圧:逃れられない苦しみ
事件発覚後、寺輪さんの自宅には記者やカメラマンが押し寄せ、まさに囲まれる状態となりました。娘の思い出であるプリントシールは、いつの間にかテレビで放送され、家族のプライバシーは侵害され続けたのです。この過熱報道から逃れるため、寺輪さん一家は3週間にわたるホテル暮らしを余儀なくされました。
娘を失った深い悲しみに、慣れない避難生活が重なり、寺輪さんは眠れない夜を過ごしました。食事も喉を通らず、わずか1カ月で15キロ以上も体重が減少。「仕事も手につかなくなり、経済的にも苦しみました」と、当時の壮絶な状況を明かしています。報道の重圧は、遺族の心身を深く蝕んでいきました。
SNSでの誹謗中傷と報じられ方への不信
事件から7カ月後、博美さんとは面識のない当時高校3年生の男子生徒が逮捕されました。この少年事件は社会の大きな注目を集め、再び報道が過熱。報道機関が博美さんの顔写真を公表したことをきっかけに、SNS(交流サイト)上では根拠のない誹謗中傷が瞬く間に拡散されました。
寺輪さんは、自宅を訪れる記者たちの質問にわずかながら答える機会があったものの、事件当時の取材姿勢があまりにも辛かったため、心からの本音を語ることはできませんでした。この一連の経験は、寺輪さんのマスコミへの不信感を決定的なものにしていきました。
法廷で芽生えた共感:一人のベテラン記者の姿
寺輪さんが抱き続けたマスコミへの不信感が、「共感」という感情へと転じるきっかけは、少年の刑事裁判で目の当たりにした一人の記者の姿でした。2015年3月、津地方裁判所で裁判員裁判が開始。法廷の傍聴席には、70代の男性記者が3B鉛筆を握りしめ、少年の言葉や検察、弁護人の主張を一心不乱にメモする姿がありました。
その人物こそ、毎日新聞から中京テレビ放送へ移り、「大ベテランの事件記者」として地元でその名を知られた服部良輝さん(87)でした。
真実を追い求める執念:服部記者の役割
実は、博美さんの事件で少年の逮捕をスクープしたのは服部さんその人でした。服部さんは「博美さんの身に何があったのか。事実に向き合い、つぶさに伝えるのが私の役目だと思っていました」と、記者としての使命感を語っています。
法廷で、服部さんは傍聴席から身を乗り出し、背中のシャツを汗で濡らしながら鉛筆を走らせていました。その気迫に満ちた姿を目の当たりにした寺輪さんは、記者の執念を感じ取ったのです。「遺族である私が引いてしまうほどの気迫。博美が生きた証しや事件の真相を逃すまいと、背中で語っているように見えました」と、寺輪さんは当時の感動を振り返ります。
寺輪さんと服部さんの間に直接的な交流が生まれたわけではありません。しかし、寺輪さんはその真摯な姿に心を揺さぶられ、それまで頑なに拒んできた「記者との向き合い方」について深く考え始めるきっかけとなりました。この経験は、報道に携わる者たちの真の役割と、遺族の心情への配慮がいかに重要であるかを社会に問いかけるものと言えるでしょう。