戦後日本を揺るがした「ソ連スパイ」志位正二の告白:シベリア抑留から始まった二重生活

敗戦後の日本を震撼させた大規模なソ連のスパイ事件。その中心にいた一人が、元関東軍の参謀、志位正二でした。シベリア抑留中にソ連への協力を誓い、帰国後は日本の安全保障に関わる極秘情報を流し続けた彼の行動は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。月4万円の報酬で祖国を「売った」と評される彼の葛藤と、戦後の国際情勢の裏で繰り広げられた情報戦の実態に迫ります。この記事は、共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』を基に、その詳細を再構築したものです。

最年少参謀、志位正二の出頭と「ラストボロフ事件」の全貌

「自分はソ連のスパイでした。どうぞお調べいただいて逮捕してください」。1954年2月5日、34歳の若き元関東軍情報参謀、志位正二は自ら警視庁に出頭しました。この衝撃的な告白は、在日ソ連代表部書記官ユーリー・ラストボロフが米国へ亡命したわずか12日後の出来事でした。元警察庁長官の山本鎮彦は、志位の出頭を「何の前触れもなく公安第3課長だった僕の部屋を訪ねてきた。日本で最年少の参謀だった優秀な男でね。言葉遣いや態度も誠実で折り目正しかった。悩んだ末『すべて話そう』と覚悟してきたようだった」と回想しています。

戦後日本のソ連スパイ事件、志位正二の葛藤を象徴するイメージ戦後日本のソ連スパイ事件、志位正二の葛藤を象徴するイメージ

ラストボロフの亡命により、米当局の調査で志位を含む36人のエージェントのリストが浮上。これにより、戦後日本最大級のソ連スパイ事件の本格的な捜査が開始されました。この事件は、ソ連がシベリアなどに抑留した日本人の中から「利用価値のある者」を選び出し、将校、外交官、新聞記者など多岐にわたる職業の人物をエージェントとして日本に送り込んでいたという、想像を絶する規模の情報網の存在を明るみに出しました。日本の安全保障を根底から揺るがす深刻な事態だったのです。

シベリアの地で誓った「対ソ協力」:内務省中佐との尋問

志位正二がソ連への協力を誓うに至った背景は、1948年4月下旬に遡ります。当時、満州・奉天の第3方面軍情報部主任参謀だった志位は、ソ連・カザフ共和国カラガンダ市の第20収容所に抑留されていました。通訳兼労働監督として働く中、彼はモスクワから来たと思われるソ連内務省の中佐に呼び出され、収容所の外の建物で尋問を受けることになります。この尋問の模様は、警視庁公安部の部外秘報告書「ラストボロフ事件・総括」に詳細に記されています。

中佐は直接的に「将来、ソ連に協力する意思はないか」と切り出しました。志位はこれに対し、「日本の独立と将来の平和のためには、いずれの国とも協力する。それが私ども旧日本人将校として祖国に対する当然の義務であると思う。しかし、こと天皇に関する限り、あなたとは意見が違うようだが、それでもよいか」と答えます。中佐は「構わぬ。ソ連は長い将来にわたって平和を望んでいる。また決して革命を日本に輸出しようとは思っていない」と述べ、協力を促しました。翌日、志位は「米ソ対立の中間に位置する日本人として将来進むべき道は平和で、それがたとえ局部的なものであろうと、それを確保することが必要である」と日本語で現在の心境を記しました。

「命の危険」を感じた誓約書:山上憶良の歌が合言葉に

尋問の後、中佐は志位の写真を三方向から撮影し、罫紙を出して「通訳の言う通り、対ソ協力の誓約書を書け」と迫りました。ためらう志位に対し、中佐は「軽い気持ちでサインしておけば早く帰国できるし、日本のためにもなる」とささやきかけました。この時、志位は「拒めば命が危ない」と感じ、ペンを執ることを決意します。

こうして書かれた誓約書には、「私は、帰国後ソ連邦内務省の所属機関に対して協力いたします。もし協力しない場合にはいかなる処罰を受けても差し支えありません 1948年4月 志位正二」と記されていました。その場で日本の連絡員との合言葉も決定されます。それは万葉の歌人、山上憶良が宴席から退出する際に詠んだ歌、「憶良等は今は罷らむ子哭くらむ その彼の母も吾を待つらむぞ」でした。連絡員がこの歌の前半を言えば、志位は後半を答えなければならないというもので、中佐は帰国後の注意事項を詳しく付け加えたとされています。

結論

志位正二の告白は、戦後の混乱期における個人の苦悩と、国際情勢の複雑さを浮き彫りにしました。シベリア抑留という極限状況下で下された「対ソ協力」の決断は、彼を祖国の安全保障に関わる情報を流す「ソ連スパイ」へと変え、深い葛藤の中に置きました。この事件は、戦後日本の安全保障が直面した厳しい現実と、冷戦下の情報戦の知られざる側面を私たちに教えてくれます。志位正二の物語は、単なるスパイ事件としてだけでなく、歴史の波に翻弄された一人の人間の悲劇として、今日まで語り継がれるべきでしょう。

参考文献

共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)