2025年10月、自民党総裁選で高市早苗氏が選出され、初の女性総裁が誕生しました。1955年の結党以来、党の最高権力を巡る激しい権力闘争は絶えませんでしたが、その後の潮流を決定づけたのが1972年の「角福戦争」に他なりません。作家・大下英治氏の著書『自民党総裁選 仁義なき権力闘争』(宝島文庫)から、この歴史的対決の一端を紐解きます。
「バラマキの田中」対「理想主義の福田」:総裁選への序曲
1972年6月17日、佐藤栄作総理が自民党両院議員総会で退任を表明すると、次期総裁の座を巡り、田中角栄氏と福田赳夫氏による熾烈な戦いの火蓋が切られました。福田氏を支持するグループは「周山会」を「周山クラブ」と改称し、福田氏擁立に動きます。しかし、昭和44年初当選の44人の衆議院議員のうち、当初から明確に福田支持に回ったのは森喜朗氏ただ一人。その他、村田敬次郎氏、松本十郎氏、山崎平八郎氏、笠岡喬氏、國場幸昌氏、中島源太郎氏ら6人が福田氏を支えるに留まり、その勢力は限定的でした。
田中角栄元首相と福田赳夫元首相:「角福戦争」の中心人物たち
田中角栄の戦略:新人議員への「金銭ばらまき」と票集め
一方で、田中角栄氏は異なるアプローチで票集めに奔走しました。新人議員に対して「旅行に行くのに必要だろう」「親父が亡くなったばかりで何かと物入りだろうから、持っていけ」などと、様々な口実をつけては惜しみなく資金をばらまき、支持を固めていったのです。その実利的な手法は、当時の日本の政治状況における権力獲得の現実を浮き彫りにしていました。
森喜朗が見た福田赳夫の「理想主義」と苦悩
福田氏を担ぐことを決めていた森喜朗氏は、田中陣営のなりふり構わぬ動きに強い憤りを感じていました。ラグビーで鍛えられた体格で「福田のボディガード」とも揶揄されながら、常に福田氏に寄り添い、その側で多くのことを学びます。森氏は福田氏が自身の予想をはるかに超える理想主義者であることを目の当たりにし、その政治姿勢に深く感銘を受けました。
理想と現実の衝突:「馬鹿者!」と怒鳴った福田の信念
ある日、車中で森氏は福田氏に対し、田中陣営の資金工作に対抗するため、福田氏も資金を使うべきだと進言しました。しかし、福田氏は激怒し、「馬鹿者! お前、1年生議員にしてそんな考えで政治をやっているんなら、先が思いやられるぞ。情けない」と森氏を厳しく叱責しました。福田氏の揺るぎない理想主義と政治に対する高潔な信念は、森氏に大きな衝撃を与え、彼の政治家としての礎を築く一因となりました。
この「角福戦争」は、単なる権力闘争に留まらず、その後の自民党政治における実利主義と理想主義という二つの異なる政治哲学の対立構造を明確にしました。高市早苗氏の初の女性総裁誕生という現代の出来事も、こうした歴史的背景の上に成り立っていると言えるでしょう。権力と政治的信念を巡る争いは、形を変えながらも日本の政治史を紡ぎ続けています。
参考資料
大下英治『自民党総裁選 仁義なき権力闘争』宝島文庫





