甲子園の舞台で輝く絆:県岐商・横山温大選手の挑戦と家族の支え

左手の指に先天的なハンディキャップを抱えながらも、夏の甲子園で目覚ましい活躍を見せた県立岐阜商業高校の横山温大選手。その感動的な野球人生の背景には、家族や恩師、そして仲間たちとの揺るぎない「絆」がありました。甲子園での激戦を終え、故郷へ凱旋した横山選手に密着し、彼を支え続けた温かい物語と、プロ野球選手への夢を追う現在の心境に迫ります。

甲子園で活躍後、地元岐阜に凱旋した県立岐阜商業の横山温大選手甲子園で活躍後、地元岐阜に凱旋した県立岐阜商業の横山温大選手

故郷への凱旋、家族との再会が織りなす感動の絆

8月22日、甲子園でベスト4という輝かしい成績を収めた県岐商の選手たちが地元岐阜に凱旋しました。大勢の生徒たちから熱烈な出迎えを受ける中、バスを降りた横山選手が真っ先に駆け寄ったのは、母親の尚美さんのもとでした。

「ここまで支えてくれてありがとうございます」——横山選手の感謝の言葉に、母・尚美さんは「お疲れさま。プレッシャーもあったと思うけど、よく頑張りました」と温かく応え、親子の深い愛情が会場を包みました。横山選手は常々、「ハンディキャップがあっても、他の人に負けないくらいできるんだぞ」という強い思いを胸に、家族や恩師、そして仲間たちの支えと共に数々の困難を乗り越えてきました。

甲子園から凱旋し、母親の尚美さんと感動の再会を果たす横山温大選手甲子園から凱旋し、母親の尚美さんと感動の再会を果たす横山温大選手

2007年、3人きょうだいの末っ子として生まれた横山選手は、生まれつき左手の指がない先天性のハンディキャップを持っていました。その原因は不明です。父・直樹さんは当時を振り返り、「本人にとって一番苦しいことだろう」と胸の内を明かし、母・尚美さんも「幼稚園の頃、『小学校に行ってもこのままなの?』と尋ねられた時はショックだった」と語っています。

先天性のハンディキャップを持ちながらも、笑顔を見せる幼少期の横山温大選手先天性のハンディキャップを持ちながらも、笑顔を見せる幼少期の横山温大選手

両親は、このかけがえのない命に「温大」という名前を贈りました。母・尚美さんは、「『温』という字は、温かい、優しい、柔らかいイメージがある。そして、上の子(昂大さん)にも『大』が付くので、兄妹で共通の願いを込めたかった」と、名前に託された深い愛情と思いを語っています。

横山温大選手の両親が、息子の名前に込めた温かい思いを語る様子横山温大選手の両親が、息子の名前に込めた温かい思いを語る様子

野球への情熱と乗り越えた試練:プロの夢へ向かう道のり

横山選手が野球を始めたのは5歳の頃。野球に打ち込む兄と姉の姿に憧れ、バットを手にしました。小学3年生でスポーツ少年団に入団し、その才能は早くも開花。「僕の将来の夢は野球選手です。もっと野球の練習を毎日やって、みんなから憧れられる選手になりたいです」——10歳の横山選手は、力強く夢を語っていました。

小学生の頃、将来のプロ野球選手を夢見て練習に励む横山温大選手(当時10歳)小学生の頃、将来のプロ野球選手を夢見て練習に励む横山温大選手(当時10歳)

しかし、その道は平坦ではありませんでした。当時は義手を装着してピッチャーを務めていましたが、ボールの捕球に難しさを感じ、野球人生を見据えてピッチャーを断念する決断を下します。中学時代には愛知江南ボーイズに所属し、ピッチャーと外野手の「二刀流」に挑戦。常に自らの可能性を信じ、新たな道を切り拓いてきました。

横山温大選手の甲子園での活躍は、ハンディキャップを持つ全ての人々に勇気を与え、周囲の温かい支えが彼をここまで導いたことを示しています。家族や恩師、仲間たちとの「絆」を胸に、横山選手はこれからも野球という夢の舞台で輝き続けることでしょう。彼の「できるならプロまで」という未来への挑戦が、さらなる感動を生むことを期待せずにはいられません。

参考文献

  • Yahoo!ニュース: 【甲子園その後】“絆”に支えられ…ハンディ乗り越えた県岐商・横山選手に密着「できるならプロまで…」 (2025年8月27日配信)