藤田志穂が語る「ギャル社長」の原点:静かな幼少期から輝くギャル時代へ

「ギャル社長」として広く知られる藤田志穂さん(40)は、幼い頃は一人っ子で非常に静かな子どもでした。しかし、一冊のギャル雑誌との出会いが、彼女の人生を大きく変える転機となります。制服のない自由な高校生活で仲間を見つけ、アルバイトで得た収入の全てをファッションやメイクに注ぎ込む日々。当時のギャルとしての生き方を振り返り、藤田さんは「見た目で判断されても、中身を見せればいいと思っていました」と語ります。この言葉は、外見に注目されがちだったギャル文化の中で、彼女が自身の内面をいかに大切にしていたかを物語っています。

ギャル社長として知られる藤田志穂氏のインタビュー風景ギャル社長として知られる藤田志穂氏のインタビュー風景

静寂な幼少期から一変、ギャル文化との出会い

藤田さんの幼少期は、現在の活動的なイメージとは異なり、一人遊びを好む静かな子どもでした。好きなものがあればそれで満足というタイプでしたが、両親は「友達を連れて帰ってくる子だった」と語る通り、公園で一人でいても不思議と友達と帰宅する社交的な一面も持ち合わせていました。中学時代は剣道部に所属していましたが、高校生になるとクラブ活動よりもアルバイトに時間を費やすようになります。

彼女がギャル文化に深く惹かれたきっかけは、雑誌「egg」や「Popteen」でした。これらの雑誌で紹介されるギャルのメイクやファッションに魅了され、自分も「きれいにしたい」「髪を長く巻きたい」という願望が芽生えたと言います。当時、浜崎あゆみさん、倖田來未さん、西野カナさん、加藤ミリヤさんといったアーティストが台頭し、ギャル文化が全盛期を迎える時代でもありました。藤田さんにとってギャル雑誌は、「私のやりたいことが詰まっている」と感じさせる魅力的な世界だったのです。最初は軽い気持ちでギャルになりましたが、やがて周囲から「ギャル」と見られることで、「ギャルである自分」が彼女の中で定着していきました。両親は当初驚いたものの、娘が元気に過ごしているならと、特に強く反対することはありませんでした。

自由な校風と「皆勤賞」で貫いたギャル道

藤田さんが通った高校は、制服がなく自由な校風が特徴でした。千葉県に位置する通信制の学校でしたが、神奈川、栃木、埼玉など様々な地域から多様な生徒が集まっていました。中には藤田さんよりもさらに個性的なギャルファッションの生徒や、オタク系の生徒もおり、多様な価値観が共存する環境でした。当初はCanCam系のファッションを目指していた藤田さんですが、「ギャルは高校生のうちしかできない」という思いから、最終的にはギャルの道を選択します。

ギャルとしての外見は、学校の先生から髪色やメイクに関して指導を受けることも少なくありませんでした。しかし、藤田さんは3年間一度も学校を休むことなく皆勤賞を達成しました。「ちゃんと勉強して成績も取っているから」と堂々と反論することもあったと言い、先生方もやがて「彼女は彼女なりに頑張っている」と見守ってくれるようになりました。友達関係においては、見た目で敬遠されることもありましたが、ギャル同士の仲間意識は非常に強く、結果的に楽しい学生生活を送ることができました。このギャルライフを維持するため、藤田さんは学業と並行してアルバイトにも懸命に取り組みました。

バイト漬けの日々が支えたギャルライフ

中学校卒業後の春休みからアルバイトを始め、最初はフードコートでの皿洗い。その後、運輸会社で伝票整理の仕事を約3年半、ほぼ毎日、夕方5時から夜9時まで続けました。このハードな労働で得たバイト代の使い道は、全てギャルのファッションや美容に費やされました。当時のギャル服はワンピース一枚で1万8000円するものもあり、初めてのヘアエクステには7万円を投じ、それが1ヶ月で取れるたびに付け直していたと言います。ネイルや週に一度通う日焼けサロン(日サロ)の費用もかさみ、お金はすぐに無くなってしまう状態でした。しかし、彼女は高校の卒業旅行で友達と二人でグアムに行けるほどの貯蓄もしていました。このエピソードは、見た目の華やかさだけでなく、目標のために努力を惜しまない藤田さんの堅実な一面を垣間見せます。

ギャル文化全盛期を駆け抜けた若き日々

藤田さんが高校生だった時期は、まさにギャル文化の全盛期でした。益若つばささんや小森純さんといった人気ギャルモデルが同世代に活躍し、18歳を超えてもギャルを続ける若者が増えることで、その文化はさらに広がりを見せていました。初期のギャル文化は「肌は黒く、髪は明るく」が鉄則とされていましたが、後には「白ギャル」などの多様なスタイルも登場し、ギャルの表現はより豊かになっていった時代でもあります。藤田さんは、この変化と進化のただ中で、自身のギャル道を確立していきました。

まとめ

藤田志穂さんの「ギャル社長」としての原点は、静かな幼少期からギャル文化との出会い、そして自由な高校生活とバイト漬けの努力の日々にありました。彼女は、外見で判断されることへの葛藤を抱えつつも、「中身を見せればいい」という信念を貫き、学業とアルバイトに真摯に取り組みました。当時のギャル文化を単なる流行と捉えるのではなく、自身のアイデンティティを確立し、目標達成のための努力を惜しまない、藤田さんの強い意志と行動力が形成された重要な時期であったことが伺えます。彼女の経験は、自己表現と努力の価値を再認識させる示唆に富んでいます。

参考資料