知床ヒグマ襲撃事件の深層:なぜ「大人しい母さんクマ」は人を襲ったのか

近年、日本各地でクマによる人身被害が相次ぎ、社会的な問題となっています。特に2025年8月14日には、北海道の知床半島にある羅臼岳で、登山中の男性(26歳)がヒグマに襲われ命を落とすという痛ましい事件が発生しました。この悲劇を受け、クマ問題を取材するライターの中野タツヤ氏は、今回の事件が観光客による餌付けなど、何らかの理由でヒグマが凶暴化した結果ではないかと指摘しています。加害クマはすでに駆除されましたが、なぜこのヒグマが突如として人を襲ったのか、その背景にある要因を探ることが急務となっています。

知床半島に生息するヒグマのイメージ知床半島に生息するヒグマのイメージ

「岩尾別の母さん」豹変の背景にあるもの

事件が発生したのは2025年8月14日、羅臼岳での登山中の出来事でした。被害者の男性はヒグマに襲われ、命を落としました。事件翌日には加害クマが駆除され、その個体は体長約1.4メートル、体重117キロのメスのヒグマであることが判明しました。驚くべきことに、このヒグマはこれまで何度も人前に姿を現し、地元住民の間では「岩尾別の母さん」という愛称で親しまれるほど大人しい個体として知られていました。

観光客による「餌付け」の疑念

長年人間と共存してきたかのように見えた「岩尾別の母さん」が、なぜ突然豹変して人を襲うに至ったのでしょうか。現在、インターネット上では、「一部の心ない観光客が餌付けをしたためではないか」という説が広く出回っています。

実際に事件前の7月29日には、知床国立公園内で、車内からヒグマにスナック菓子を与える観光客が目撃され、知床の自然保護活動を担う「知床財団」にも通報が寄せられていました。羅臼町役場で野生動物の情報を統括する産業創生課は、「デイリー新潮」の取材に対し、ヒグマが一度与えられた餌やゴミの味を覚えると、その記憶を忘れることなく人里へ降りてくる傾向があると説明しています。このことから、観光客が餌を与えたり、食べ物を投げ捨てたりしたことで、ヒグマが人間の食べ物の味を覚えてしまい、それが今回の事故の一因となった可能性が考えられています。

野生動物が人を恐れる理由と「餌付け」の危険性

なぜクマに餌付けをすると、彼らが人を襲うようになるのか、そのメカニズムを理解することは非常に重要です。本来、クマをはじめとする多くの野生動物は、人間との接触を避け、本能的に人間を恐れるものです。山中でクマと遭遇した場合でも、通常は「人間と関わると危険な目に遭う」と判断し、自ら距離を取って攻撃してくることは稀です。ただし、数メートルの至近距離で突然遭遇した場合や、子連れのクマが防衛本能を高めている場合など、例外的にクマの方から積極的に攻撃を仕掛けてくる可能性もあるため、安易に近づくことは決して推奨されません。

ヒグマの食性と人食いクマの特異性

そもそも、野生のヒグマは雑食ですが、その食生活において肉食が占める割合は意外に少ないとされています。のぼりべつクマ牧場のウェブサイトによると、ヒグマの食料の約7~8割が植物性であり、門崎允昭氏の著書『ヒグマ大全』(北海道新聞社)では、9割ほどが木の実や野草などの植物を食べていると解説されています。このような食性を持つヒグマが、わざわざ人を襲ってその肉まで食べるというのは、非常に特殊なケースであると考えられます。人間からの餌付けによって、ヒグマが人間の食べ物を容易に得られるものと認識し、結果として人間に対する警戒心を失うことが、凶暴化の大きな要因となるのです。

結論

知床羅臼岳でのヒグマ襲撃事件は、単なる野生動物の事故として片付けることはできません。地域で「岩尾別の母さん」として親しまれていたヒグマが人を襲った背景には、観光客による無意識の、あるいは悪意のある「餌付け」行為が強く疑われています。本来、人間を恐れる野生のヒグマが人間の食べ物の味を覚え、その警戒心を失った時、人里への出没や人身被害のリスクは飛躍的に高まります。今回の悲劇を教訓とし、今後同様の事件を繰り返さないためには、野生動物への餌付けを絶対に避け、適切な距離を保つという基本原則を、私たち人間一人ひとりが徹底して遵守することが不可欠です。


参考文献