第二次世界大戦の空に輝く「フライング・タイガース」:日中戦争の英雄たち

1941年、数百人の米国人パイロットや整備士、支援要員が、中国での1年間契約という破格の求人に応じました。月額最高1万6725ドル(現在の約245万円)の給与、年間30日の休暇、住居と食費700ドルの支給に加え、日本軍機1機撃墜につき1万1000ドルの報奨金(上限なし)が提示されたこの募集は、彼らを中国の英雄、「救世主」へと導くことになります。彼らこそ、後に「フライング・タイガース」、正式名称「米国義勇軍(AVG)」として知られる伝説の部隊です。

彼らの戦闘機、カーチスP-40Bの機首に描かれた恐ろしいほどに大きく開いたサメの口は、現在でも一部の米軍機に残る象徴的なデザインです。この部隊は最大497機の日本軍機を撃墜したとされ、その一方での損失はわずか73機にとどまりました。今日の米中間の政治的緊張にもかかわらず、これら米国の義勇兵たちは今なお中国で深い敬意を集めています。中国共産党機関紙・人民日報の追悼ページには、「中国は第二次世界大戦における米国と米国民の貢献と犠牲を常に忘れない」と記され、その遺産は現代にまで受け継がれています。

フライング・タイガースの誕生とその使命

1930年代後半、中国は装備と統制に優れた日本軍の侵攻を受け、劣勢に立たされていました。日本軍は空中戦で圧倒的な優位を誇り、中国の都市を自由に爆撃していました。この状況に対し、中国の指導者である蒋介石は、自国の空軍を再建するため、元米陸軍将校クレア・シェンノートを顧問として雇い入れます。シェンノートは、初期の数年間で空襲警戒網の構築と中国全土での空軍基地建設に尽力しました。

1940年、シェンノートはまだ中立国であった米国に派遣され、日本からの防衛を担う操縦士と航空機の確保に着手します。ルーズベルト米政権との強力なコネクションと、米軍での収入の3倍にもなる高給を支払える予算のおかげで、シェンノートは必要な飛行士たちを募ることができました。さらに、英国向けに製造されていた100機のカーチスP-40B戦闘機を中国に送る契約が結ばれ、フライング・タイガースの戦力が整えられていったのです。

1942年5月、中国上空を飛行する「フライング・タイガース」のP-40戦闘機。シャークマウスが特徴的な米国義勇軍の機体1942年5月、中国上空を飛行する「フライング・タイガース」のP-40戦闘機。シャークマウスが特徴的な米国義勇軍の機体

劣勢を覆した革新的な戦術と活躍

シェンノートの回顧録によれば、彼らが入手したP-40戦闘機には最新式の照準器が装備されていませんでした。操縦士たちは、米陸軍航空隊や英空軍が使用するような精密な光学照準器ではなく、「粗雑な手製の輪っかと棒の照準器」を使って銃の狙いを定めていたといいます。しかし、シェンノートはこのP-40の能力不足を革新的な戦術で補いました。

彼はAVGの操縦士たちに対し、高い位置から急降下して攻撃を仕掛ける戦術を指示しました。これにより、構造的には弱いが機動性の高い日本軍機に対し、P-40の重機関銃を効果的に撃ち込むことを可能にしました。フライング・タイガースは、この独自の急降下攻撃戦術と厳格な訓練によって、驚異的な撃墜数を記録し、日中戦争における中国の劣勢を覆す重要な役割を果たしました。彼らの存在は、中国の人々に希望を与え、日本軍にとっては大きな脅威となったのです。

現代に受け継がれる「フライング・タイガース」の遺産

フライング・タイガース、米国義勇軍(AVG)は、第二次世界大戦中の日中戦争において、その卓越した戦闘能力と勇敢な行動で歴史に名を刻みました。彼らの伝説的なシャークマウスのP-40戦闘機と、劣勢を覆した革新的な戦術は、軍事史における特筆すべき功績として語り継がれています。

彼らが中国のために戦った事実は、現代の複雑な米中関係の中にあっても、両国間の歴史的な友好関係と相互支援の象徴として、その価値を失っていません。中国人民日報が彼らの貢献を称え続けていることからも、フライング・タイガースが築いた遺産がいかに深く中国社会に根付いているかが伺えます。彼らの物語は、困難な時代における国際協力と、個人の勇気が歴史を動かす力を持つことを現代に伝えています。

参考文献

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