内部留保課税は日本経済の処方箋か?専門家が指摘する会計上の誤解とリスク

日本企業の内部留保、すなわち利益剰余金が2023年度末に600兆円を突破したという財務省の調査結果は、経済界に大きな波紋を広げています。「企業が利益を社外に還元せず、ため込みすぎている」との批判から、減税の財源確保策として「内部留保課税」を求める声が一部で高まっています。しかし、国際課税研究所首席研究員の矢内一好氏をはじめとする専門家からは、その導入には「会計上の誤解」「国際競争力低下の懸念」「二重課税の問題」といった重大なリスクが指摘されています。果たして、内部留保課税は日本経済が抱える課題に対する有効な解決策となり得るのでしょうか。本稿では、この複雑な問題を多角的に分析します。

財務省発表:膨張する日本企業の「内部留保」とその背景

減税が議論されるたびに、その財源確保が課題となります。その際、一部の政治勢力や国民からは、法人の内部留保が巨額であることを理由に、これに課税すべきだという意見が浮上します。財務省が2024年9月2日に発表した法人企業統計調査によると、企業の利益から税金や配当を差し引いた「内部留保(利益剰余金)」は、2023年度末時点で驚くべき600兆9,857億円に達しました。

2017年の調査時点では全産業(金融業・保険業を含む)の利益剰余金が507兆4,454億円であったことを鑑みると、わずか7年間で約100兆円もの増加が見られ、この急速な増加は「法人が利益を社外に還元せず、ため込みすぎている」という批判に拍車をかけています。消費税減税などの財源として、この巨額の内部留保に課税すべきとの声が一部政党から出されていますが、その一方で、この考え方に対する強い反対意見が存在することも無視できません。

日本企業の内部留保を示すグラフのイメージ。財務省の調査結果に基づき、企業の利益剰余金が600兆円を超えた状況を視覚的に表現。日本企業の内部留保を示すグラフのイメージ。財務省の調査結果に基づき、企業の利益剰余金が600兆円を超えた状況を視覚的に表現。

「内部留保課税」への専門家の主要な懸念点

矢内一好氏は、内部留保課税の導入には複数の深刻な問題が潜んでいると警鐘を鳴らしています。これらの懸念は、その経済的影響だけでなく、企業会計の基本原則や国際的な視点からも論じられています。

1. 会計上の誤解:内部留保は「現金の塊」ではない

内部留保に関する批判の根底には、「企業が多額の現金をため込んでいる」という誤解があります。実際には、会計上、貸借対照表の貸方に計上される利益剰余金は、借方では現金預金だけでなく、工場設備、研究開発投資、土地などの固定資産、さらには在庫や売掛金といった様々な具体的な資産として表されます。したがって、「内部留保=現金の塊」という単純な理解は、企業財務の実態を正確に反映しているとは言えません。経営の観点からは、内部留保をどのように効率的に活用し、企業の成長やイノベーションに繋げるかが真に重要であると指摘されています。

2. 国際競争力への影響:海外企業との比較

日本企業の内部留保を議論する際には、国際的な視点からの比較が不可欠です。2023年の日本国内における内部留保上位3社はトヨタ(29兆円)、三菱UFJ(18兆円)、日本郵政(15兆円)ですが、純粋な現金保有高から有利子負債を差し引いた「純現金残高」で見ると、任天堂(9,926億円)、信越化学工業(8,029億円)、SMC(5,761億円)が上位を占めます。欧米の主要企業と比較した場合、日本企業は内部留保や純現金残高のいずれにおいても劣後しているとの見解が強く、仮に内部留保課税が導入されれば、日本企業の国際競争力がさらに低下する懸念があります。これは、グローバル市場での日本経済の地位を揺るがしかねない重大な問題です。

3. 二重課税問題:公平性の議論

法人税によって企業所得にはすでに課税が行われています。課税後の利益を内部留保した上で、さらにその留保金に課税することは「二重課税」に当たるとの批判が根強くあります。確かに、戦時体制前後には戦時利得税など類似の課税が欧米でも行われた歴史があり、「厳密な意味での二重課税ではなく多重課税」と分析する見解も存在します。しかし、納税者にとっては「二重の負担」となることに変わりはなく、税制の公平性という観点から、この問題は内部留保課税の創設を阻止する強力な論拠となっています。

結論:内部留保課税は日本経済の処方箋たり得るか

財務省の最新データが示すように、日本企業の内部留保が過去最高水準に達していることは事実です。この巨額な資金を日本経済活性化の源泉とすべきだという議論は理解できます。しかし、国際課税研究所首席研究員の矢内一好氏が指摘するように、「内部留保=現金の塊」という会計上の誤解、国際競争力への負の影響、そして二重課税という根本的な問題は、安易な内部留保課税導入を躊躇させるに十分な理由です。

企業がため込んだ利益をどのように活用すべきかは、人件費の向上、設備投資、研究開発、株主還元など、多岐にわたる経営判断を伴います。これらの判断を阻害し、企業の成長意欲を削ぐような課税制度は、結果として日本経済全体の停滞を招く恐れがあります。内部留保課税は、単なる減税財源確保策としてではなく、日本経済の持続的な成長というより大きな視点から、その是非が慎重に検討されるべきでしょう。


参考文献:
矢内一好 著, 『富裕層が知っておきたい世界の税制【カリブ海、欧州編】』