七三一部隊の知られざる起源:石井四郎の野望とソ連の影

第二次世界大戦中、旧満洲に存在した旧日本帝国陸軍の極秘部隊、「七三一部隊」。その正式名称は「関東軍防疫給水部」とされ、表向きは日本兵の飲用水供給と細菌感染の予防を掲げていました。しかし、その裏では、細菌兵器の開発・製造、そして忌まわしい人体実験(生体実験)が繰り返されていたのです。部隊を統括し、その創設者となったのは、京都帝国大学医学部出身の陸軍軍医、石井四郎(最終階級は軍医中将)でした。本稿では、広中一成氏の著書『七三一部隊の日中戦争』に基づき、ベールに包まれた七三一部隊の設立背景と、その初期の成り立ちについて深掘りします。

日本帝国陸軍軍医であり、七三一部隊の創設者である石井四郎中佐の肖像写真。日本帝国陸軍軍医であり、七三一部隊の創設者である石井四郎中佐の肖像写真。

背陰河での「東郷部隊」設立と細菌戦の口実

七三一部隊の歴史は、満洲国成立の翌年、1933年に遡ります。石井四郎は、黒龍江省ハルビン郊外の背陰河に「東郷部隊」(背陰河細菌試験所。東郷は石井の変名)と称する組織を結成し、細菌の感染力を調べるための人体実験に着手しました。

この活動の「正当性」を主張するための口実として利用されたのが、ソ連による細菌戦の脅威でした。防疫研究室で石井と共に細菌研究に携わり、後に栄部隊を率いた軍医の増田知貞は、戦後の証言で、1935年から36年にかけて満洲に侵入したソ連のスパイから、赤痢菌、炭疽菌、コレラ菌の混合物が入ったアンプルなどが発見されたと述べています(「日本における科学情報調査レポート」、『標的・イシイ』所収)。また、石井の部下だった北條円了軍医も、関東軍ハルビン特務機関が捕らえた満洲匪賊からソ連製の試験管が発見され、検査の結果、チフスやコレラなど数種類の細菌が見つかったと回想しています。「これに依りソ連の細菌謀略の一端が判明し、石井軍医大佐は日本軍でも是非此の細菌戦研究所を設立し、之が防衛策を研究する必要があると陸軍省や参謀本部の当事者を説得して、遂に昭和八年満洲ハルピンの東方の背陰河に細菌兵器の研究所(石井部隊)の設立を見るに至ったのでした」(北條圓了「私の滞欧回顧録」、『大戦中在独陸軍関係者の回想』所収)。これらの証言から、ソ連の細菌戦が、石井が満洲で細菌兵器開発に取り組むための絶好の口実として利用された実態が明らかになります。

七三一部隊が本部を置いたハルピンと、林口、牡丹口、孫呉、ハイラル、大連に展開された支部(出張所含む)の鉄道網と拠点を示す地図。七三一部隊が本部を置いたハルピンと、林口、牡丹口、孫呉、ハイラル、大連に展開された支部(出張所含む)の鉄道網と拠点を示す地図。

国際情勢の変化と七三一部隊の巨大化

東郷部隊の設立からわずか3年後の1936年8月、背陰河近くの平房に石井を部隊長とする「七三一部隊」が新たに発足しました。ハルビンから南へ約20キロメートルの平房は、広大な土地が日本軍に接収され、約6平方キロメートルもの範囲に6つの村が集まっていた場所でした。背陰河の東郷部隊の区画が約500メートル四方だったのと比較すると、七三一部隊の規模はこれをはるかに凌駕していました。

このような巨大な組織がなぜ設立されたのでしょうか。東郷部隊が成立した1933年以降、日本ではメディアを通じて「1935、6年の危機」が叫ばれるようになりました。これは、満洲事変を調査したリットン報告書に反発して日本が国際連盟脱退を通告し、1935年に正式発効されることで生じる国際情勢の大きな変化を指します。これに備えるため、日本陸軍は国防の根本方針を検討。参謀本部の永田第二部長はソ連との対決を前に日満中3国のブロック形成の必要性を、また満洲事変を主導した石原莞爾大佐は極東ソ連軍の戦力増強への危機感から、満洲の育成と対ソ防衛の強化を主張しました。

これらの意見を受け、1936年6月3日、日本陸軍は「帝国国防方針」などを改定。満洲における対ソ防衛の柱の一つとして、東郷部隊をさらに拡大した七三一部隊を成立させたのです。部隊発足の4カ月前、関東軍参謀長の板垣征四郎少将から陸軍次官の梅津美治郎中将に提出された「在満兵備充実ニ対スル意見」には、「昭和十一年度に於て急性伝染病の防疫対策実施及流行する不明疾患其他特種の調査研究並細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す」と明記されており、七三一部隊の任務が防疫対策と同時に「細菌戦の準備」であることが明確に示されていました。

徹底された秘密主義と巨額の研究費

七三一部隊の設立と活動は、極めて厳重な秘密のベールに包まれていました。当時ハルビン駐屯の第二師団長だった岡村寧次中将は、七三一部隊の設立について「本省では、大臣、次官、軍務局長、軍事課長、医務局長ぐらい、関東軍では小磯(小磯國昭中将)参謀長と私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、私だけが直接石井と密会して中央と連絡するということになっていた」と回想しています(『岡村寧次大将資料』上巻)。この証言が示す通り、七三一部隊の存在は日本軍内に知られていても、その具体的な活動内容については、ごく一部のトップ関係者以外にはほとんど知らされていなかったのです。

元関東軍総参謀副長で、戦後ハバロフスク裁判で証人として尋問を受けた松村知勝は、七三一部隊が公にされなかった理由を、「此の部隊の編成及び部隊で行われていた細菌兵器研究業務に関連する費用は、議会に対する特別報告を必要としない関東軍非常軍事予算に繰入れられて居りました。此の事は、議会に席を占め、軍事問題に疎い人物に対して部隊の業務を極秘にしておく可能性を与えました」と語っています(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』)。この巨大な秘密部隊は、議会の監視を逃れる形で巨額の資金が投入され、その活動を維持していたのです。東郷部隊発足前の1932年8月には、関東軍作戦主任参謀だった遠藤が、石井に研究費として機密費から20万円(現在の価値で約8億円)を渡した記録もあります(『日中十五年戦争と私』)。前年の陸軍全体の機密費総額が14万円(現在の価値で約5億5000万円)だったことを考えると、石井に投じられた研究費がいかに高額であったかがわかります。

結び

七三一部隊は、石井四郎の野望、ソ連の細菌戦という口実、そして激動する国際情勢という複雑な要因が絡み合い、その実態を隠蔽する徹底した秘密主義と潤沢な資金によって築き上げられました。表向きの「防疫給水」とは裏腹に、細菌兵器の開発と人体実験を目的としたこの部隊の設立は、日本の歴史における暗い側面を象徴しています。その知られざる起源を深く理解することは、戦争の負の遺産と向き合い、平和な未来を築く上で不可欠な視点を提供してくれるでしょう。

参考文献

  • 広中一成著『七三一部隊の日中戦争』PHP研究所
  • 「日本における科学情報調査レポート」(1945年9月─10月)
  • 北條圓了「私の滞欧回顧録」『大戦中在独陸軍関係者の回想』所収
  • 『死の工場』
  • 『関東軍〈1〉』
  • 『日本国防の悲劇』
  • 「在満兵備充実ニ対スル意見」(「陸満密綴 第10号」所収)
  • 『岡村寧次大将資料』上巻
  • 『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』
  • 『日中十五年戦争と私』
  • 『昭和陸軍秘録』