戦争は莫大な費用を伴います。日本は太平洋戦争中、いかにしてこの膨大な戦費を調達し、そして極度の資源不足の中で戦争を継続しようとしたのでしょうか。防衛省防衛研究所主任研究官の小野圭司氏によると、1944年には国民総生産(GNP)の99%に相当する745億円が戦費に充てられましたが、これを可能にしたのが「現地通貨借入金」という特殊な制度でした。この制度と、逼迫する戦況下での日本の経済的・物質的窮状、そしてそこから生まれた「奇策」の数々を深く掘り下げます。
戦争を支えた「現地通貨借入金」のメカニズム
対米開戦以降、日本は勝利のために全てを犠牲にし、あらゆる物質的資源を使い果たしました。膨大な戦費の調達を支えたのが、現地通貨借入金です。これは占領地で発行した軍票などを使い、現地で物資を調達する仕組みであり、本国からの資金送金を必要としないため、外貨準備が乏しい日本にとって有効な手段でした。この制度により、1944年にはGNPのほぼ全てが戦費に充てられるという、尋常ではない経済状況が作り出されました。しかし、この財政的な「魔法」も、肝心の物資が尽きてしまえば意味をなさなくなります。
枯渇する航空燃料と「本土決戦」への切迫
日本軍は、本土決戦に備え、旧式の練習機をかき集めて約1万機の航空機を確保しました。これは、開戦以降に生産された6万6000機の85%を失った後の、まさに最後の抵抗力を示しています。しかし、これらの飛行機を飛ばすための燃料が絶望的に不足していました。開戦時の4300万バレルあった石油備蓄は、終戦時にはわずか300万バレルにまで減少。月間消費量が戦前の250万バレルから150万バレルに落ち込んでいたことを考慮しても、終戦時の残量では1~2カ月しか持ちこたえられない計算でした。
燃料節約のため、1945年に入ると訓練飛行は原則中止され、やむを得ず訓練を行う際にはアルコール混用率80%という高濃度の燃料が使用されました。さらに、生産された航空機は燃料節約のため、試運転もそこそこに軍に引き渡される有様でした。本土決戦用の1万機の中には、このような十分な試験すらされていない機体も含まれていたのです。
旧日本海軍の象徴、三菱零式艦上戦闘機
海上輸送力の喪失と「奇策」の模索
航空機燃料の枯渇と並行して、海上輸送力も壊滅的な打撃を受けました。開戦時に600万トンあった商船保有量は、戦争中に330万トンを建造したにもかかわらず、米軍の攻撃で860万トンを失い、終戦時にはわずか70万トンにまで激減していました。運航可能な商船の多くは、石油節約のため機関を石炭用ボイラーに換装せざるを得ませんでしたが、近海に漂う機雷や敵潜水艦のため、海軍艦艇すら満足に航行できない状況でした。
タンカー不足は、南方から石油を日本本土へ輸送することを不可能にしました。そこで海軍は、商船に曳航させる艀(はしけ)型の石油タンクという「奇策」を考案します。製鉄設備がない南方油田地帯では、現地で採れる天然ゴムを用いて試作されました。本土では鉄不足を補うためにコンクリート製の艀型タンクも作られましたが、これらは操船が難しく、速度も大幅に低下するため、敵潜水艦の格好の標的となり、結局は実用化されませんでした。
最終的には、松の切り株から作る松根油に期待が寄せられます。1945年度中に200万バレルの採油が計画されましたが、終戦までに生産できたのはわずか26万バレルに過ぎませんでした。現代から見れば滑稽に思えるこれらの策も、当時の関係者にとっては真剣な、そして最後の希望だったのです。
結論
太平洋戦争末期における日本の戦費調達と資源戦略は、破滅的な状況下での絶望的な試みの連続でした。「現地通貨借入金」という制度で一時的に財政を支えられたものの、航空燃料や海上輸送力といった基幹的な資源が枯渇するにつれ、国家は本土決戦という名の下に、非現実的な「奇策」に頼らざるを得なくなりました。これらの歴史的事実は、戦争が国家経済と国民生活にいかに甚大な影響を及ぼすか、そして資源の重要性を改めて浮き彫りにしています。
参考文献: 小野圭司『太平洋戦争と銀行 なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』(講談社現代新書)





