ドナルド・トランプ前米大統領が、民主主義の根幹を揺るがす「スローモーション・クーデター」を画策しているとの懸念が、米国政界や識者の間で急速に広がっています。この表現は、国家権力の一方的な掌握や制度の骨抜きを、従来の電撃的な軍事クーデターとは異なる、緩慢かつ巧妙な形で進行させていくプロセスを指します。米国の憲法で定められた権力分立の原則、そして独立性の高い機関がその機能を失いつつある現状は、米国の民主主義の未来に深刻な影を落としています。
「スローなクーデター」とは何か?:概念と背景
一般的に「クーデター」(coup d’État)は、フランス語に由来し「国家への一撃」を意味します。ブリタニカ辞典では「少数のグループによる突然の暴力的な政権転覆」と定義されており、2021年2月に発生したミャンマーでの軍事クーデターはその典型的な例です。総選挙の不正を主張した国軍が、一夜にして政権を掌握し、大統領を含む指導者らを拘束しました。しかし、現在米国で指摘されているのは、このような電撃的なものではなく、ゆっくりと、しかし確実に民主主義の制度を内側から蝕んでいく「スローなクーデター」と呼ばれる現象です。
この表現を最初に用いたのは、HBOの人気政治風刺番組「リアルタイム」で知られるコメディアン、ビル・マー氏でした。彼は番組内で、「トランプは“スローモーションのクーデター”を進めている。しかも前回(2021年1月6日の連邦議事堂乱入事件)よりもはるかにスムーズに行くだろう」と警告し、民主党に対し「感情的に騒ぐのではなく、このクーデターを阻止することに注力すべきだ」と強く訴えました。マー氏の辛辣な発言は時にジョークと受け取られますが、今回の警告は、現実に裏付けられつつあるかのように見えます。
首都ワシントンD.C.から地方都市へ:兵士の日常化と権限拡大の試み
「スローモーション・クーデター」の兆候は、まず首都ワシントンD.C.で顕著になりました。トランプ前大統領は、約2000人規模の州兵と連邦職員を投入し、事実上、首都の警察権を掌握しました。彼はこの行動を「地獄のように危険だった街を安全にした」と自画自賛しましたが、統計データによれば、暴力犯罪はすでに2023年をピークに減少しており、2024年には30年ぶりの低水準に達し、2025年もさらに減少傾向にありました。批判派からは、危機を過剰に誇張し、治安回復を自身の功績に仕立て上げたとの指摘が出ています。それでも、首都の街頭に兵士の姿が日常的に見られる状況は、一部の支持層からは治安回復と歓迎する声も聞かれました。
米首都ワシントンD.C.の街頭に展開する州兵、高まる政治的緊張
さらに、この介入の矛先はシカゴやニューヨークといった民主党の拠点都市へと及んでいきました。トランプ前大統領は「シカゴは無能な市長のせいで大混乱だ」と攻撃を強め、「次はシカゴ、その後はニューヨーク」と公然と威嚇しました。ボルティモアについても、SNSで「必要なら軍を送る」と投稿。これらの民主党支配下の都市を「危険な街」と一方的に決めつけることで、連邦政府による介入、さらには正規軍の派遣をも正当化しようとする意図が見えました。
南北戦争後に制定されたポッセ・コミタタス法は、連邦軍が国内の治安維持活動に直接関与することを明確に禁じています。仮に連邦軍が派遣されれば、これは法秩序を意図的に無視する行為に他なりません。このような行動は、連邦政府、特に大統領の権限を不当に拡大し、地方自治の原則を侵害する危険性をはらんでいます。
独立機関への介入:揺らぐ権力分立の原則
「スローモーション・クーデター」は、独立性の高い政府機関への露骨な介入によっても進行しました。その一例として、連邦準備制度理事会(FRB)のクック理事の罷免があります。FRBは長期任期が保障されており、中央銀行の独立性を維持することで、政治的圧力から自由な金融政策運営を行うことが期待されています。この罷免は、金融政策の独立性、ひいては市場の信頼を揺るがす行為として批判されました。
また、トランプ政権下では、1月には17人もの行政監察官(インスペクター・ジェネラル)が一斉に解任される事態が発生しました。行政監察官は、政府内部の不正や浪費を監視し、国民の利益を守るための重要なチェック機能を担っています。彼らの一斉解任は、政府内部の監視機能を奪い、大統領の権力に対するチェック・アンド・バランスの仕組みを骨抜きにするものと受け止められました。
これらの事例は、立法、行政、司法の三権分立、さらには独立行政機関によって支えられてきた米国民主主義の権力分立の原則が、内部から確実に侵食されつつある現実を示しています。
結論
トランプ前大統領による「スローモーション・クーデター」の進行は、米国の民主主義の未来に深刻な問いを投げかけています。首都における州兵の常態化、地方都市への政治的介入の試み、そしてFRB理事や行政監察官の解任といった一連の行動は、単なる政治的駆け引きを超え、国の制度的基盤を緩やかに破壊しようとする戦略として捉えられています。
権力分立の原則や独立機関の機能が損なわれることは、政府の透明性と説明責任を低下させ、最終的には国民の自由と権利を脅かす可能性があります。米国が直面しているこの状況は、世界中の民主主義国家にとっても重要な警告であり、法の支配と制度的チェック・アンド・バランスの維持がいかに不可欠であるかを改めて浮き彫りにしています。
参考資料
- FNNプライムオンライン: 「トランプ氏「スローモーション・クーデター」と専門家が警告…アメリカで何が起きているのか?」 (2025年9月8日公開)
- Britannica Dictionary
- HBO “Real Time with Bill Maher”