東條英機。その名を聞けば、近代史に明るくなくとも「A級戦犯」の語を続けざまに唱えることができてしまう。「戦後最大のタブー」とも、長きにわたり評価されてきた。
当人は死刑により、1948年12月23日に63年の生涯を終えることとなったが、残された子孫の人生は当然、続いていく。
今回話を聞いた東條英利さん(53歳)は、直系の曾孫である。この重たい名を、どのように背負って生きてきたのだろうか。
名前をくびきとして考えていた過去から、「和解」のために使うべきものと考えるに至るまで――。その思いと現在取り組んでいる活動について伺った。
父の世代は全国民から敵視されていた
――「東條」という名前は、長年「戦後最大のタブー」とされてきたかと思います。公に活動を始めるまで、どのような葛藤があったのでしょうか。
東條英利:東條英機はおそらく戦後最大のタブーですね。私の父の世代は全国民から敵視されていた家ですから。私自身、30歳ぐらいまではこの名前から逃げようとしていました。
ただ、世の中がどんどん変わってきたんです。私の中では、小泉元首相の靖国参拝が大きな変化で、そこで「A級戦犯」という言葉がマスメディアでも使われ始めました。同時にインターネットが台頭して、今までメディアでは取り上げられなかった曽祖父のことを、皆さんが勝手に調べ始められるようになった。それで、曽祖父の見方を変えた方が少し増えはじめたというのが公に発信を始めた背景です。
「仕返しをしてはいけない」という言葉を頑なに守った
――お父様世代は、特にご苦労されたと聞いています。具体的にどのような経験があったのでしょうか。
東條英利:父の苦労を一番感じるエピソードがあります。終戦時の小学2年生ぐらいの時、まず学校の先生全員が父を担任として受け持つのを拒否しんです。「東條英機の孫なんか見たくない」と。父は学校に行っても教室に入れず、校庭のポールに登って2階の教室を眺めていたそうです。
復学しても、「お前のじいちゃんのせいで俺の親父が死んだ」と責められ、いじめや石投げに遭っていました。本当に切ないのは、父には幼い妹と弟がいたのですが、彼らが狙われた時には、父が覆いかぶさって、殴られ終わるのを血だらけになって待っていたという話です。東條英機の妻からは「決して仕返しはしてはなりません」と言われていたので、父は一番我慢していたと思います。





