朝ドラ『ばけばけ』第5週:異文化交流が暴く「偏見」とトキの深い気づき

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の第5週「ワタシ、ヘブン、マツエ、モ、ヘブン。」は、主人公トキ(髙石あかり)が22歳を迎え、運命の相手となるアメリカ人教師ヘブン(トミー・バストウ)と出会う明治23年の松江を舞台に描かれました。知事(佐野史郎)の招聘により、松江の教育レベル向上を目指す英語教師として来日したヘブンでしたが、実は日本の滞在記執筆を目的とするジャーナリストであり、教師の立場を偽っていたため、その胸には不安と怖気づきがありました。通訳の錦織(吉沢亮)を介して松江の人々と交流する中、トキは握手を交わしたヘブンの手に不可解な違和感を覚えます。今週は、異文化間の「ディスコミュニケーション」をコミカルかつ深く描き出し、人間の持つ「偏見」や弱さ、そしてそれらを乗り越えるトキの成長が鮮やかに浮き彫りになりました。

異文化が巻き起こす「ディスコミュニケーション」の妙

異国に一人降り立ったヘブンが、教師という仮面をかぶり日本での生活をいかにうまくこなしていくか。第5週は、言葉や文化、生活習慣の違いから生じる数々の小さなハプニング、すなわち「ディスコミュニケーション」をユーモラスに描いています。その代表的なシーンの一つが、ヘブンの好色疑惑でした。来日早々、ヘブンが色街へと向かう姿にトキたちは眉をひそめますが、彼の真の目的は女性ではなく、三味線をはじめとする異国情緒あふれる設えや装束といった日本の文化に惹かれていただけだったのです。

錦織の通訳を介した「誤解」のやり取りは、まさに言葉の壁が引き起こす笑いを生みました。
ヘブン「ゴカイゴカイ(誤解、誤解)」
錦織「5回もですか!」
ヘブン「イッショニ イタダケ ナニモ シテナイ(一緒にいただけ、何もしていない)」
錦織「そんな表現、英和辞書に載ってないでしょう」

このような会話劇は、異文化理解の難しさと、そこから生まれる滑稽さを浮き彫りにします。さらに、日本の熱い風呂を「ジゴクジゴク」と叫びながら半裸で飛び出し、湯呑みなどの小道具で身体の一部を隠すシーンなど、従来の朝ドラでは珍しいほど「猥雑」な表現が随所に散りばめられていました。

朝ドラにおける「猥雑さ」の挑戦と意義

第5週では、旅館の主人・平太(生瀬勝久)が宿代を高めに設定したり、司之介(岡部たかし)が牛乳代をぼったくったりと、言葉や相場を知らないヘブンを「カモ」にする描写が軽やかに描かれています。これらのシーンは、一見するとコミカルですが、その背後には人間の営みにおけるしたたかさや、時に生じる「猥雑さ」がうかがえます。

このようなお笑い番組的な表現は、従来の朝ドラ視聴者には賛否両論を巻き起こす可能性があります。例えば、『とと姉ちゃん』(2016年度前期)で常子(高畑充希)が臀部を叩く描写や、『ブギウギ』(2023年度後期)で空襲中にスズ子(趣里)がトイレに籠もるシーンなどが「品がない」「ふざけている」と批判された例もあります。しかし、『ばけばけ』では、これらの笑いの要素が頻繁に、むしろ物語の主軸の一つとして取り入れられているのが特徴です。

「ばけばけ」第5週より、来日したばかりの英語教師ヘブンと、彼に初めて触れ違和感を覚えるトキの出会いの場面。「ばけばけ」第5週より、来日したばかりの英語教師ヘブンと、彼に初めて触れ違和感を覚えるトキの出会いの場面。

しかし、『ばけばけ』のこれらの描写は単なるショートコント集に留まりません。日常のすれ違いを人間ドラマとして深く描き出したいという制作側の意図が見て取れます。第5週に描かれた一つひとつの出来事は、最終的にトキがヘブンの手に触れた時に感じた「違和感」へと繋がっていく重要な伏線として機能しています。松江の日本人と異人との間の滑稽なすれ違いの根底には、古くから伝わる「鬼」や「天狗」といった異国人説も存在する「偏見」がありました。自分たちとは異なるものを「鬼」として排除しようとする、人間の本質的な弱さが浮き彫りになります。

「偏見」を乗り越え、真の人間理解へ:トキの気づき

明治23年の松江においても、異文化に対するコンプレックスや、自分と異なるものを否定しようとする人間の弱さが存在したのかもしれません。しかし、トキは一連の出来事を通じて、当初自分たちより優れていて「天狗になって」(威張っている)いると感じていたヘブンが、実は一人異国に来て不安や恐れに震えていたのではないかという深い気づきを得ます。数々の「ディスコミュニケーション」によるコミカルな場面はすべて、トキがこの真実に到達するための過程として描かれているのです。

この週の展開は、見た目の面白さだけでなく、人間の内面にある偏見や弱さを浮き彫りにし、それを乗り越えて他者を深く理解することの重要性を示唆しています。トキの成長を通して、『ばけばけ』は視聴者に、異文化間の摩擦の中から生まれる真の人間理解の尊さを問いかけていると言えるでしょう。

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