京都「千年の都」誕生の陰に、渡来系秦氏の貢献と弥勒菩薩像の謎

794年から1869年までの1000年以上にわたり、京都は日本の都として栄えました。作家の康熙奉氏は、この「千年の都」の誕生と発展には、朝鮮半島から渡来した秦氏一族の存在が不可欠であったと指摘しています。高い技術力を持っていた秦氏は、かつて原野であった京都の地を農地に開拓し、都市の基盤を築く上で大きな貢献を果たしました。本稿では、国宝第一号として知られる「弥勒菩薩半跏思惟像」と広隆寺の歴史を通して、渡来文化が日本の古代史、特に京都に与えた深い影響を探ります。

国宝第1号「弥勒菩薩半跏思惟像」と朝鮮半島の深いつながり

京都の太秦に位置する広隆寺は、静寂の中でひときわ荘厳な雰囲気を放っています。その本堂に安置されているのが、日本美術史において特別な地位を占める国宝第一号「弥勒菩薩半跏思惟像」です。この仏像は、右足をそっと左足の膝に乗せ、右手を頬に添えて思索にふける姿が印象的です。薄暗い空間の中で見るその表情は、柔和でありながらもどこか憂いを帯びたまなざしで、多くの人々を魅了してきました。

京都の歴史的な風景をイメージさせる写真京都の歴史的な風景をイメージさせる写真

この広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、韓国ソウルにある国立中央博物館所蔵の半跏思惟像と驚くほど類似していることが知られています。制作年次ではソウルの像の方が古いとされており、その類似性から、広隆寺の像が新羅から贈られたものであるという学術的な見解も存在します。また、渡来してきた仏師が自国で制作された仏像にならって日本で同じ様式の像を造立したという仮説も提唱されています。

いずれの説が真実であれ、この弥勒菩薩半跏思惟像が、仏教文化が盛んであった朝鮮半島の強い影響を色濃く反映していることは間違いありません。これは、日本と朝鮮半島の間に古くから存在した文化交流の証であり、両地域の芸術的・宗教的なつながりの深さを示しています。

渡来系氏族「秦氏」が建立した広隆寺の歴史

広隆寺は、その由緒ある歴史を語る上で、渡来系氏族である秦氏と密接な関係があります。広隆寺が発行する小冊子によると、この寺は推古天皇11年(603年)に建立された山城国最古の寺院であり、聖徳太子が建立したとされる日本七大寺の一つに数えられています。かつては蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺など様々な名称で呼ばれていましたが、現在では一般に広隆寺として知られています。

広隆寺の成立については、『日本書紀』に次のような記述が見られます。「十一年十一月己亥朔。皇太子謂諸大夫日。我有尊仏像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進日。臣拝之。便受仏像。因以造蜂岡寺。」この記述から、聖徳太子が所有していた尊い仏像を、秦氏の族長である秦河勝(はたのかわかつ)が賜り、その仏像を本尊として蜂岡寺(後の広隆寺)を建立したことが分かります。広隆寺資財交替実録帳によれば、この時の本尊が現存する弥勒菩薩半跏思惟像であることも明らかです。

広隆寺は度重なる火災に見舞われながらも、多くの国宝級の仏像を現代に伝えてきました。そのおかげで、私たちは今もなお、弥勒菩薩半跏思惟像をはじめとする貴重な文化財を拝観し、古代の歴史に思いを馳せることができるのです。秦氏の持つ先進的な技術力と、彼らがもたらした文化が、京都の地においていかに深く根付き、後の日本の文化形成に寄与したかを、広隆寺の存在が物語っています。

結論

京都が「千年の都」として日本の歴史にその名を刻む上で、渡来系氏族である秦氏の貢献は計り知れないものがありました。彼らは高度な土木技術と文化をもたらし、広大な農地の開拓や広隆寺のような重要な宗教施設の建立を通じて、この地の発展に貢献しました。また、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に見られるように、朝鮮半島との文化交流が日本の古代仏教美術に深い影響を与え、今日の日本文化の豊かな多様性の礎を築いたことを再認識させられます。これらの歴史的事実は、日本が古くから多文化を受け入れ、独自の文化を育んできた証しであり、現代においてもその精神が受け継がれていることを示唆しています。


参考文献