ソロ活の裏側:自由と快適さの先に潜む「消極的孤独」

近年、ライフスタイルの一つとして「ソロ活」が注目され、自由で快適な生き方として語られることが多い。しかし、著述家の真鍋厚氏は、その明るい表面の裏に、人間関係の希薄化から生まれる「消極的な孤独」が隠されていると指摘する。同じように一人で時間を過ごす行為であっても、個人の孤独との向き合い方によって、その本質には大きな差があるという。真鍋氏の著書『令和ひとりカルト最前線 サバイバリズム時代の生存戦略』から一部を抜粋・編集し、現代社会における「ソロ活」と「コミュニティ」の複雑な関係性を探る。

「共同体」と「コミュニティ」の微妙な違い

私たちは「共同体」という言葉を聞くと、どこか息苦しさを感じてしまうかもしれない。しかし、「コミュニティ」という響きには、あまり悪い印象を抱かないだろう。辞書を引けば一目瞭然だが、「コミュニティ」とは「村落、都市、地方など、地域性と共同性という2つの要件を中心に構成されている社会のこと。特に地縁によって自然発生的に成立した基礎社会をいう。住民は同一の地域に居住して共通の社会観念、生活様式、伝統をもち、強い共同体意識がみられる。地域社会。共同体」とある(『精選版日本国語大辞典』)。

両者はほとんど同じ意味を持つが、「共同体」が村社会や因習といった古風なイメージと結びつきやすいのに対し、「コミュニティ」は現代的で価値中立的な「安心できる場所」というニュアンスで使われる傾向がある。このため、「コミュニティ」には「共同体」とは異なる、不思議な心地良さが付加されることになったのだ。

イメージ画像:ソロ活を楽しむ人々イメージ画像:ソロ活を楽しむ人々

著者が経験した「包摂と排除」のコミュニティ

筆者である真鍋氏は、地方の宗教都市、奈良県天理市の天理教本部の地で育った。このような信仰共同体の中で、創造神の働きや、明治中期に死没した教祖の「存命」といった教えを当たり前のものとして受け、祝祭的なイベントを通じて「集合的沸騰」(宗教社会学者のエミール・デュルケームが提唱した、宗教的儀式の中で生まれる一体感の概念)を幾度となく経験したという。

しかし、真鍋氏は結局、信者になることを拒み、自ら一般社会へ「亡命」した。このような半生を経てきた彼にとって、コミュニティは常に「包摂と排除」という二面性を持つものとして意識されている。家族をはじめとする人間集団は、常に境界によって内と外を分けるものだ。これは誰がメンバーであるかを明確にするためであり、もちろん、どのような集団にも曖昧な領域は存在する。

だが、コミュニティの本質はそこではない。重要なのは、誰が身銭を切ってでも守るべき対象であるかを判別し、それ以外の人々に対する関心が希薄になる点にある。真鍋氏は元々信仰心が薄いタイプで、小学校高学年で創造神の存在に疑問を抱き、宗教行事には仕方なく参加しているに過ぎなかったため、熱心な信者から心ない言葉を投げかけられることも一度や二度ではなかったと述懐している。しかし、彼らは彼らなりのやり方で真鍋氏を「包摂」しようとしていただけなのだ。これは信仰共同体内部の道徳律への順応と捉えることもできるが、「世俗的道徳」においても何ら変わることはない。コミュニティは特定の価値を共有しており、それを共有できない者は立ち去るしかない。排除には「追い出す」というニュアンスが伴うが、「門戸を閉ざす」という表現の方がしっくりくると真鍋氏は語る。そして、コミュニティの外側では、砂粒のような個人が所在なさげに浮遊しているのが現状だ。

ソロ活ブームの背景:コミュニティとの対極にある生き方

このようなコミュニティの対極にある、自由な主体としての生き方を象徴しているのが「ソロ活」である。近年、「おひとり様」向けのビジネスは急速に成長している。外食産業では「1人客」専用の席や独自のプランが設けられ、アウトドア業界では単独でキャンプを行う「ソロキャンプ」がブームとなるなど、その動きは多岐にわたる。

ソロ活は一見すると、現代人が求める自由や自己充足の象徴のように映る。しかし、真鍋氏の指摘するように、その根底には人間関係の希薄化という現代社会の課題が横たわっている可能性も否定できない。コミュニティが持つ「包摂と排除」の側面から距離を置く選択が、結果として「消極的孤独」に繋がることもあるのだ。ソロ活がもたらす真の豊かさとは何か、そして私たちはどのように孤独と向き合うべきか。現代社会における個人の生き方を深く考えるきっかけとなるだろう。