むき出しの山肌にへばりつくように建つ粗末な住まい。こぼれそうな人々の笑顔に、「ようやく自由が戻った」という思いがあふれていた。2001年11月13日、アフガニスタンのイスラム原理主義組織、タリバンが敗走した首都カブール。街に入った瞬間に見た光景は今も忘れない。
タリバンの恐怖政治の下、女性は青い衣服「ブルカ」で全身を覆い、男性はひげも切れず、音楽を聴くことも禁じられていた。あれから19年。タリバンとトランプ米政権は和平合意に達した。アフガンの人々に笑顔は戻るのだろうか。
米軍の空爆で首都から敗走したものの、タリバンはその後も自爆テロや恐怖による住民統治で支配地域を維持してきた。
資金や武器が途切れないタリバンには強力な後ろ盾がいる。アフガンと北部一帯で国境を接するパキスタンの情報機関、「3軍統合情報部」(ISI)だというのが定説だ。
互いに核を持ち合い、インドと対峙(たいじ)するパキスタンにとって、「後背地」であるアフガンが国家として機能し外交交渉などを行うようになれば、インドとの間で板挟みになり息苦しさが増す。それを避けるため、タリバンを植え付けて軍閥や部族、宗派の抗争が絶えないようにする戦略だ。
東側で国境を接するイスラム教シーア派大国イランも同様で、アフガンに貧困や汚職がはびこり国家の体をなさない方が思うままに介入できる。アフガンの少数民族ハザラ人はシーア派が主体で、貧困下の若者たちが数百ドルの月給でイランによりシリア内戦の最前線に送られているとの見方が絶えない。
交通の十字路として古くから栄えたアフガンには時々の大国が触手を伸ばしてきた。19世紀には植民地政策を進める英国、20世紀には社会主義のソ連が支配下に置こうと動いた。そして今度は米国が手を引きつつある。
アフガンを長く取材してきた「ジャパンプレス」の佐藤和孝さんは、「ブッシュ米政権はタリバンを首都から追い出し、勢力が弱体化した01年の時点で、政権の後ろ盾となって国づくりをもっと支援すべきだった。それが確立しないうちに03年、イラク戦争を始めた」とし、これが現在に至るアフガンの大きな転換点になったとみる。
タリバンの“代表”が米と和解したとしても、内部の全勢力が納得しているとはかぎらない。テロが根絶されるとは考えにくい。新たにスンニ派過激組織「イスラム国」(IS)の信奉者が巣くうなか、米国という重しがなくなれば、むしろテロが頻発して1990年代のような内戦に陥る可能性が高い。
性暴力や差別が姿を消し、汚れた川で洗濯する女性たちがブルカを脱いで心から笑える日は、タリバンと米の「和解」でさらに遠のいたのかもしれない。
(カイロ 佐藤貴生)