幼稚園の頃から、ザ・ドリフターズにハマった世代。志村さんが付き人時代に組んでいたお笑いコンビ「マックボンボン」のコントも見た者として、また「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家として番組の会議に出ていた頃は、「憧れの志村さんと同じ空気が吸える」と感動だった。しかも席は志村さんの隣で、毎週、その横顔を見ていた。
テレビ画面ではバカバカしさの極致といえるコントをしているのに、実際の会議は産みの苦しみの連続。机に突っ伏してゼロから笑いを考え、1~2時間の沈黙はしょっちゅうだった。
笑いに対し、すごく緻密な計算をされ、古今東西のお笑いを本当によく勉強されていた。レンタルビデオ店を開けるぐらいに、海外のコメディー映画やコント番組の映像を取り寄せ、ギャグの“貯蔵”をされていた。会議で「あの映画のあそこが面白かったんだよ」という志村さんの発言がヒントになったこともある。
思い付きでも行き当たりばったりでもなく、蓄積されたギャグのすごさがあり、それを緻密に忍耐強く組み上げていく。すごく時間のかかる作業を毎週、長きに渡ってやっていた。その緻密に練ったものを、いざ演じるときには飲み屋の延長のように見せるバカバカしさがあった。
そうしたコントの作り方について、後にインタビューした際に、「いかりや長介さんを継承したのですか」と聞くと、「それしか知らないからねえ」と笑って話されていた。志村さんといかりやさんは、芸風は違えど、ギャグやコントづくりへの姿勢は継承されていたのだと思う。
会議の当時は厳しい表情が印象的で、怒るということはなかったが、コントを台本に書いて持っていってもリアクションがないとがっかりしたものだ。ただ大いに勉強させてもらった。
志村さんのコントは、たとえ40年前のものを今の若い人が見ても笑える。それは人間の普遍的な部分を再現して笑いにできるから。それを可能にする腕もあった。「ダチョウ倶楽部」や「千鳥」の大悟さんなど慕う芸人は多いが、志村さんと一緒にやることで勉強にもなったと思うし、芸の幅を広げる機会にもなった。お笑いに対する姿勢も含めて学ぶことは多く、その王道の笑いを追究する手本がいなくなると、今後そうした笑いがどうなるのかという懸念もある。
今年は古希を迎えられ、山田洋次監督の映画の出演は、喜劇の世界にとって夢の顔合わせとなるはずだった。70歳になって新しい境地を迎えるところで、「喜劇王」としてのますますの活躍を見られたと思えるだけに残念でならない。
談・江戸川大学、西条昇教授(55)(大衆芸能史、お笑い論)