中島みゆき、吉田拓郎らプロデュース 瀬尾一三の細く長い足跡

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数々の名曲、名盤を手がけた音楽プロデューサー、瀬尾一三=東京都渋谷区

数々の名曲、名盤を手がけた音楽プロデューサー、瀬尾一三=東京都渋谷区

 瀬尾一三(いちぞう)(72)は「音楽プロデューサー」だ。昭和45年に仕事に就いたから、この道50年。吉田拓郎や中島みゆきらとの仕事で日本のフォーク、ニューミュージック史に残した足跡は巨大だ。いまなお歩み続ける瀬尾が、音楽プロデューサーという仕事について語る。(石井健、写真も)

 50年で瀬尾が編曲やプロデュースで携わった歌は2800曲。「22才の別れ」「我(わ)が良き友よ」「『いちご白書』をもう一度」「ひとり咲き」「とんぼ」「壊れかけのRadio」「糸」…。ヒット曲の枚挙にはいとまがない。

 昭和22年に兵庫県で役人の家に生まれた瀬尾は、関西大学で英語教師を目指したが、フォークソングに魅了された。在学中、関西でフォークグループの一員として活動したが、45年に上京してレコード会社の制作マンになった。

 「僕は“黒衣(くろご)”が好きなんだ。僕には、“表”に出るために必要なカリスマ性という天分がない。目立たなくていいから好きな音楽の仕事を細く長く続けたかった」

 瀬尾は、実践を通じてスキルを磨いた。スタジオ演奏家や機材の手配、編曲のノウハウなどだ。

 47年に独り立ちし、翌48年に手掛けたのが吉田拓郎の実況録音盤「たくろうLIVE’73」だ。瀬尾は編曲家および共同プロデューサーとして作品に名を刻んだ。アイデアを出し、編曲を手掛け、人や機材の手配をし、作品の方向性を決めた。伴奏に管楽器群を導入し、“フォークの拓郎”のイメージを打ち破った。

 「音楽プロデューサーに定義はないのですが、あえていうなら音楽家がゼロから生み出した歌を、どう流通させるかを考え、録音物を納品するのが仕事」

 CHAGE and ASKA、長渕剛、徳永英明らを手がけた瀬尾が、63年に出会ったのが中島みゆきだ。

 瀬尾の足跡をまとめて今年2月に出版された「音楽と契約した男」に中島は、プロデュースを依頼するため初めて会った瀬尾について寄稿している。

 「“ものすごく不機嫌な表情”だった。こりゃ駄目かなと内心思った」

 瀬尾は笑って否定する。

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