本省人(台湾出身者)として初の総統となった李登輝氏は、台湾の戦後史を象徴する存在だった。外省人(中国大陸出身者)による支配が長く続いた台湾で、本省人の登用策に乗り最高権力者に上り詰めた。就任後は自らの政治手腕で権力闘争に打ち勝ち、民主化と統治体制の「台湾化」を強力に推進。共産党一党独裁の中国とは異なる「自由で民主的な台湾」の像を国際社会で確立した。
李氏は日本統治時代に高等教育を受け、「22歳までは日本人だった」と語っていた。台湾は終戦によって中華民国に接収され、本省人が日常的に話す言葉とは異なる標準中国語が公用語になった。李氏も他のエリート層同様、言語を再習得せざるを得なかった。国共内戦に敗れ台湾に移った中国国民党政権は、1987年まで続く戒厳令を元に「白色テロ」と呼ばれる政治弾圧を行った。李氏も共産党系の「読書会」に参加したことで監視対象とされ、不安な日々を送った。
農業経済学を学んだことで蒋経国の知遇を得て71年に国民党に入党。翌年、蒋経国が行政院長(首相に相当)に就任した際、本省人を多数登用し、李氏も農業担当の政務委員(無任所大臣)に抜擢(ばってき)された。当時49歳で、遅めの政界入りだった。
その後、台北市長などの要職を駆け上がったが、本省人のライバルは複数いた。人口で多数を占める本省人中心の社会から民主化を求める動きが噴出する中、蒋経国は李氏を副総統に指名したが、本省人としては2人目。李氏の総統就任は、自力でのし上がったものとはいえず、偶然による要素も多分にあった。