湾岸危機30年 危険冒さぬ日本に向けられた蔑視 ワシントン駐在客員特派員・古森義久

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空に向けて銃を撃ちながら行進する多国籍軍兵士=1991(平成3)年3月2日、クウェート市内(共同)

空に向けて銃を撃ちながら行進する多国籍軍兵士=1991(平成3)年3月2日、クウェート市内(共同)

 1990年のイラクのクウェート侵攻は、崩壊しつつあるソ連への対処に追われていた米国の不意を突く大異変となったが、当時の初代ブッシュ(父)政権は戦後史でもまれな多国間の団結でイラク軍を粉砕し、東西冷戦後の世界の新秩序を固めることに成功した。その過程では日本だけが国家としての欠陥をさらし、国際的な屈辱を体験した。

 イラク軍の大部隊がクウェートになだれこんだ第一報がホワイトハウスに届いたとき、ワシントンは夏休みだった。ブッシュ大統領、チェイニー国防長官はともに翌日のコロラド州での式典に出る予定を決めていた。米国のイラク駐在大使はロンドンで静養中だった。

 だが予期せぬ衝撃を受けたブッシュ政権も対応は敏速だった。イラクのフセイン大統領の行動を国際規範違反の侵略行動と断じ、撤退を迫る一方、応じない場合の軍事制裁の準備を国内、国際の両面で始めたのだ。

 当時の世界では前年の89年11月にベルリンの壁が崩れ、ソ連の共産党体制が揺らいでいた。その翌月にはマルタでの米ソ首脳会談でゴルバチョフ書記長は東西冷戦の終わりという言葉を口にして、米国への対決の終結を示唆していた。

 国際情勢のそんな地殻変動の中でのイラクの軍事侵略だったのだ。その背景にはペルシャ湾岸で米国がソ連の脅威の後退に応じ臨戦態勢を緩めたことにフセイン大統領がつけこんだという要因もあった。

 ブッシュ政権は国連に呼びかけ、イラクの侵略への経済制裁と軍事力行使容認の決議を取りつけていった。その決議を基礎に各国に多国籍軍への参加を求めた。

 米国内でも予備役招集など軍事行動への準備を進めた。

 なにしろイラクの侵略性や無法性があまりに明白だったため、米国の行動を国際正義や大義として同調する国が多かった。米国内でもイラク糾弾は超党派の強いコンセンサスとなった。

 だがイラクはクウェートに数十万の部隊を駐留させ、武装を強化して、撤退の求めには応じなかった。

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