毒ガスをつくった男、フリッツ・ハーバーの数奇な人生

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毒ガスをつくった男、フリッツ・ハーバーの数奇な人生

 この町は今、3年に1度開かれる「ネコ祭り」で有名だ。世界各地からネコ好きが集い、ネコの仮装をして楽しむ。中世に毛織物産業で栄えたイーペルでは、商品をネズミに荒らされないように飼っていたネコが繁殖しすぎてしまい、後にネコを駆除した歴史がある。この悲しい過去を忘れないために行われているイベントという。

 だが最初にイーペルを世界的に有名にしたのは、1914年に始まった第一次世界大戦である。ここは史上初めて本格的な毒ガス戦の舞台となった町なのだ。催涙ガス弾などはそれまでにも使われていたが、ドイツ軍はイーペルの草原で15年4月22日、致死性の高い大量殺傷用ガスを初めて用いた。人の粘膜を破壊し、呼吸困難などに陥れて殺害する塩素ガスである。これをきっかけに、ドイツ軍に限らず英仏など連合国側もたがが外れたように化学兵器を使い始める。双方はホスゲンなど新種の兵器を次々に投入。第一次大戦での毒ガスによる死者は約10万人に上り、市民も含む100万人以上が負傷したといわれている。

 「第一次大戦から100年を過ぎても、イーペルではまだ発見されるものがあります。何か分かりますか」。大戦開始から100年の節目だった2014年に私がイーペルを訪れた際、戦場跡を案内するガイドをしていたアンドレ・シャウブレクさんが兵士の墓の前で問いかけてきた。「骨です。毎年、当時の兵士の遺骨が必ずどこかから見つかるんですよ。でも多くは身元が特定できないまま埋葬されてしまいますけどね」

 毒ガスが使われた第一次大戦を「化学の戦争」、原子爆弾が使われた第二次大戦を「物理の戦争」と呼ぶことがある。戦争と科学の発展は切っても切れないが、その陰で戦闘員ではない大量の一般市民が命を落としてきた。こうした兵器を開発した人は、どんな思いで生涯を過ごしたのだろう。今回のコラムでは、毒ガス開発を手掛けた一人の化学者の数奇な人生を紹介したい。

 ◇「平時は人類のため、戦時は祖国のため」

 この塩素ガスを兵器として開発したのが、「化学兵器の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー博士(1868~1934年)である。

 「科学というものは、平時は人類のため。戦時は祖国のため。それが愛国者だった彼のモットーでした。開発に成功した時、ドイツ国内ではほとんど反対の声もなく、彼はまさに英雄だったのです」。ハーバーの生涯に詳しいドイツ・ハイデルベルク大学のエルンスト・ペーター・フィッシャー教授(科学史)は14年6月、ハイデルベルク市の自宅でそう説明してくれた。同大学は神聖ローマ帝国時代の14世紀に設立されたドイツ屈指の名門で、ハーバー自身もこの大学で青春の一時期を過ごしている。

 この毒ガスに反対した人物がいた。それが、同じ化学者でもあった最愛の妻クララだった。夫が毒ガス開発を主導したことを知り、クララは大きなショックを受けた。だが夫は聞く耳を持たない。絶望したクララは1915年5月、幼子を残したまま、拳銃自殺してしまう。「妻の死はもちろんショックだったでしょう。しかしハーバーはクララ亡き後、むしろ以前よりも一層研究に打ち込み、祖国ドイツに献身的な愛国者になったと言われています。彼はドイツのエリート層、特にドイツの皇帝に認められたい一心だったのです」。フィッシャー教授はそう話す。

 ハーバーは仕事を続け、その後再婚(のちに離婚)。第一次大戦が終わった年の18年には、過去に手掛けたアンモニア合成法の業績が認められてノーベル化学賞まで受賞している。もっともこの受賞には戦時中の敵国だった英国やフランスから激しい非難の声が上がったという。だがハーバーの名声はノーベル賞を機にさらに高まっていった。

 日本とのつながりもある。ハーバーは第一次大戦が終わってから数年後、世界一周の旅に出ている。米国を経て太平洋を横断し、24年には日本も訪れた。実はハーバーのおじは北海道函館市でドイツ代弁領事をしていた明治7(1874)年、排外思想を持つ旧秋田藩士に殺害されていた。ハーバーはこのおじを悼み、没後50年の節目に函館を訪れて追悼式典に参加したのだ。さらにハーバーは東京で、星製薬の創立者・星一とも親交を温めた。星一は、SF作家の星新一の父である。

 ◇今も続く追悼式

 イーペルは毒ガス戦だけでなく激しい砲撃戦の舞台ともなった。今、この町には当時ドイツと戦った英国側の戦没兵の名前が刻まれた門「メニン・ゲート」がある。大英帝国戦没者墓地委員会が1927年に建立したもので、5万4896人の名が残る。英国をはじめとした連合軍兵士は、この門を起点に戦場へ向かった。門にはオーストラリアやインド、カナダなどからの出征兵士の名前も多い。祖先の追悼のため、今も世界中から多くの人々が訪れる場所だ。

 14年に私がここを訪れた際、オーストラリアから来たジャン・スコット・ダークさんという52歳の女性に会った。門に設置されている祭壇に花輪を手向けていたので、話を聞いてみると、やはり戦没者の子孫だった。「1917年に20歳で戦死した大叔父ジェームズの追悼に来ました。今の私の息子と同じ年齢なんですよ。今、壁面に大叔父の名を見つけました。胸が詰まりました」

 イーペルでは毎晩、戦没者の追悼演奏が行われる。式典を主催する民間団体「ラストポスト協会」はトランペット演奏をする楽団を含め、20人以上のスタッフ全員がボランティア。各自、仕事が終わってから門に駆け付け、15分ほどの式典を行う。この団体幹部のベノワ・モトリーさんは、式典を取材していた私にこう話していた。「1928年以降、ナチス・ドイツによる占領時代を除いて毎日続けています。追悼の思いを一日たりとも忘れないためです」

 20年には新型コロナウイルスの影響でこのイベントの続行が危ぶまれた。だが欧州メディアによると、今も見物客の人数を制限し、互いの距離を取りながら、追悼演奏は続けられているという。

 ◇「英雄」を待ち受けていた運命

 さて、ドイツの英雄となったハーバーはその後どうなったか。33年にヒトラー率いるナチスが政権を握ると、人生は暗転していく。実は彼はユダヤ人だったのだ。ナチスのユダヤ人迫害政策の影響で、徐々にハーバーは「追われる身」となる。ドイツを愛し、ユダヤ教からキリスト教に改宗までしたハーバー。だが彼は結局そのドイツから裏切られ、33年に研究機関を去ることになる。フランスに住んでいた息子を頼り、まずハーバーはパリに逃げた。さらに英国などを転々とした後、34年1月にスイス・バーゼルで病死した。ライン川が流れるこの町の目と鼻の先には、彼が愛し抜いた祖国ドイツがあった。

 世界はその後も化学兵器を使い続けた。第二次大戦、ベトナム戦争、イラクのクルド人が虐殺されたハラブジャ事件、化学テロである地下鉄サリン事件、そしてシリア内戦。第一次大戦から100年以上たった今も、それは現在進行形で人類の脅威であり続けている。

 私はハーバーの人生を追ったベルリン特派員の任期を終え、その後カイロ特派員として中東に赴任した。そして上記のハラブジャ事件の舞台となったイラクや、内戦下のシリアで取材する機会もあった。シリアではアサド政権による猛毒神経ガス・サリンなどを使った化学兵器攻撃が何度も疑われている。だが政権側はその度に使用を否定し、国際調査も進まない。その度に私はやり切れない思いになりながら、ふとハーバーのことを思い出していた。

 ハーバーは毒ガスの使用について、同僚にこう説明していたという。「むしろ使用によって戦争を早く終結させ、多くの人の命を救える」。この論理は、のちに第二次大戦で広島、長崎への原爆投下を正当化した米国側の主張にそっくりだ。しかし大量破壊兵器の使用はこうして21世紀の今も続き、多くの人が命を失い続けているのが現実でもある。

 祖国ドイツのため、化学兵器開発を誇りに思っていたハーバー。だが彼は死の直前、実は息子にこんな遺言を残している。「クララと一緒の墓に埋めてほしい」。毒ガスを開発した男が人生の最後に思い出したのは、その毒ガスに最後まで抵抗した最初の妻クララだったのだ。二人は今、スイス・バーゼルの同じ墓に眠っている。【篠田航一】 (登場する人物の肩書や年齢などは原則として取材当時のものです)

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