正室2人、側室5人とのあいだに15人の子をなした明治天皇の祖父。天皇家が一夫一婦の「近代家族」になったのはいつからか

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正室2人、側室5人とのあいだに15人の子をなした明治天皇の祖父。天皇家が一夫一婦の「近代家族」になったのはいつからか

令和の幕開け。「即位後朝見の儀」でお言葉を述べる天皇陛下。2019年05月01日撮影(写真提供:読売新聞社)

【写真】入園式に向かわれる浩宮さまと美智子妃。明仁さまがお見送りを

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◆多くの人が関心を寄せる「皇室の恋」

皇族は恋をする。

60余年前、明仁皇太子はテニスコートで見染めた正田美智子(しょうだみちこ)妃と恋に落ちた。秋篠宮眞子(あきしののみやまこ)内親王は、大学キャンパスで出会った同級生小室圭(こむろけい)に恋をした。21世紀に入っても、多くの人が皇室の恋に関心を寄せている。

外国でも同じだ。

英国のエドワード8世は、米国人女性、ウォリス・シンプソンと結婚するため、王位を捨てた(1936年の王冠を賭けた恋)。チャールズ皇太子とダイアナ妃との恋愛、結婚、破局は、世界の多くの人が注目し続けた。

運命の人と出会って、その人を心から愛して結婚し、最後まで添い遂げたい。

恋とは、多くの場合、そういう感情だと考えられている。皇族も恋をするだろう。それは、当たり前に思える。だが、昔からそうだったわけではない。

明治天皇の祖父に当たる仁孝(にんこう)天皇の場合を考えてみよう。江戸時代後期の天皇だ(在位1817~46年)。

正室は鷹司繋子(たかつかさつなこ)で、彼女が亡くなったあと、妹の鷹司祺子(やすこ)が継室となった。ほかに側室が少なくとも5人、なした子供は15人。

仁孝天皇は、近代的な夫婦、家族とは異なる環境に生きていた。一人の異性と恋をし、添い遂げるという発想は持っていなかった。

江戸時代の宮廷が、一夫一婦多妾(いっぷいっぷたしょう。側室制のこと)だったのは、天皇の跡継ぎ(皇嗣《こうし》)を確保するためだ。

多くの子供がいれば皇位は安定する。明治天皇の世になっても側室は廃止されなかった。大正天皇は形式的には一夫一婦を確立したように見える。だが実は若い女官(にょかん)に興味を持ったと語られる。

昭和天皇に側室がいないのは確実だが、女子が4人続き、側室を持つように進言されたと噂された。昭和天皇はまた、子供を手許で育てることができなかった。

皇室は長い間、古代以来の家族システムを維持したかのように見える。

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