尼崎JR脱線事故当時、兵庫県警被害者対策室長として遺体安置所で指揮を執った西井芳文さん=神戸市中央区東川崎町1(撮影・坂井萌香)
尼崎JR脱線事故が発生して、25日で17年。事故発生直後、現場近くの体育館に設置された遺体安置所で遺族らの対応に当たった兵庫県警OBの西井芳文さん(64)が取材に応じ、当時の状況を初めて語った。変わり果てた肉親との対面を見守り、救出を待つ家族に徹夜で状況を説明するなど、「家族の要望に応えようととにかく必死だった」と振り返る。(竜門和諒)
【写真】不安から絶望に 遺体安置所は「第2の現場」 尼崎JR脱線事故
西井さんは2005年3月、警務課に異動。事件事故に遭った人や遺族をケアする被害者対策室長に着任した。
同年4月25日、午前9時18分ごろ起きた事故の一報は、県警本部の対策室で受けた。同9時40分、室員らと計4人で現場近くの尼崎東署に向けて出発した。昼ごろには被害の大きさが明らかになり、JR西日本にひつぎの準備を依頼した。
午後2時半ごろ、尼崎市記念公園総合体育館(現ベイコム総合体育館)の安置所に着くと、乗客の家族が集まり始めていた。「現場はどうなっている」「どこの病院に運ばれた」。焦り、いらだち、情報を求める声が募り、分かる範囲で状況を伝えたが、テレビの中継映像が先行することもあった。
夕方までに検視が進み、家族に対面を求められたが、手配したひつぎが届かない。「もどかしい時間。入手できた分から搬入してもらえばよかった」と今は思うが、当時は電話で催促するのがやっとだった。
ひつぎは同6時10分ごろ、トラック数台で届き、メインアリーナに並べた。遺体の血を拭い、傷ついた部位は包帯や布で覆った。「せめてきれいな状態で帰ってもらいたい」。葬儀会社の社員と納棺した。
体育館には一時、約150人が詰め掛けた。西井さんらは、所持品から分かった氏名、年代、服装などをホワイトボードに書き込み、同7時45分から家族に確認を始めてもらった。
当初は2組ずつとしたが、同8時15分、一斉対面に切り替えた。「なんでこんな姿に」。あちこちで叫び声、泣き声が上がった。「若い遺体も多く、悲惨な現場だった」。所持品だけで身元が分からなければ、遺体の写真を数枚並べて確かめてもらった。
確認済みの遺体が搬出された一方、救出を待つ家族は残った。JR西の社員が進展を報告したが、「JRの説明は聞きたくない」という声も多く、西井さんが1時間ごとに状況を説明した。
26日未明にはオイル漏れで重機が使えなくなり、救出は行き詰まった。家族からは「救助隊員の話を聞きたい」「現場に行きたい」と即応が難しい要望も出たが、マンションや列車の位置関係をカレンダーの裏に手書きして、警察官が撮った写真で説明した。
西井さんは遺体安置所が閉鎖される29日正午まで、連日ほぼ徹夜で対応したが「全ての要望に応えることは難しく、不十分な点があったかもしれない」。
精いっぱいだった。が、あの時、例えば家族の声を聞いて警察や消防、自衛隊などの関係機関に伝えてくれる役割の人がいたら-。さらに踏み込んだ対応ができていたかもしれないと感じている。
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■発生直後こそ、遺族へのケア必要
災害や事故で家族を亡くした人を支える「日本DMORT(ディモート)」(兵庫県西宮市)の吉永和正理事長(73)は「発生直後こそ、遺族に対する精神面、健康面の医学的ケアが必要。医療や警察関係者に浸透させたい」と訴える。
日本DMORTは脱線事故を機に、前身の団体が誕生した。看護師や医師、救急救命士らが登録し、2017年に一般社団法人となった。現在までに、兵庫など6府県警と災害や事件時の遺族支援について連携を始めている。
吉永さんによると、救急医療の現場では、医師や看護師から死亡状況や病状の説明が受けられるが、災害や事故の混乱した現場では行き届かないという。
脱線事故でも、死体検案書の死因や死亡推定時刻について詳しい説明がなく、「なぜ死ななければならなかったか」「最期に苦しんだのか」という疑問を何年も抱える遺族がいた。
吉永さんは「遺体安置所を運営する警察官だけでは、医学的な説明や家族の体調のケアまでは難しい」とした上で、行政なども巻き込み、医療や警察関係者らの連携を進めてケアを充実させるよう指摘している。