目の前で友人が…
FNNプライムオンライン
ハロウィーンを前に韓国ソウルの繁華街・梨泰院(イテウォン)で150人以上が亡くなった事故は、韓国社会に大きな衝撃を与えた。
【画像】事故当時の救助活動
事故当時、現場では必死の救助活動が展開された。その場にいた市民も救助に加わり心肺蘇生(CPR)を施す姿が随所で見られた。何とか命を助けようと懸命に友人の名前を呼び、手を動かしたものの、目の前で何人もの人が亡くなった。
「助けられなくてごめん……」
生き残った若者たちの中には、自分が助かったことに罪悪感を抱く人も少なくない。また、通勤時の地下鉄など人が密集した場所を恐れるなど、多くの市民が事故のトラウマに苦しんでいる。
梨泰院近くやソウル市庁前広場に設けられた合同焼香所には、犠牲者の冥福を祈る市民の列が後を絶たない。
「梨泰院にいた娘が無事に帰ってきたときは嬉しかったが、子供を失った母親の気持ちを思うと胸が痛む」
「自分の孫のような若者たちが亡くなってとても辛い」
死者156人のうち20代が104人と最も多く、30代は31人、10代は12人と続く。未来ある若者たちを救えなかったことが、人々を一層苦しめている。
世界各国から人々が集まる多国籍な街・梨泰院だけに、外国人の死者も日本人2人を含む26人に達した。国籍もイラン、中国、ロシア、米国、フランス、オーストラリアなどさまざまだ。
梨泰院は多様性と自由を象徴する場所から一転、痛ましい惨事の現場として記憶されることになってしまった。
米軍基地の街から「梨泰院クラス」の街へ
筆者が韓国に留学していた1980年代半ば、梨泰院は米軍基地の街だった。
米国のファストフード店がまだ珍しかった時代、梨泰院に行けば、「ウェンディーズ」があり、ピザが食べられた。
韓国初のジャズクラブ「ALL THAT JAZZ」が有名で、韓国に居ながらアメリカっぽさを感じることができた。米兵相手のバーやクラブが軒を連ね、夜になると危険な雰囲気も漂い、一般の韓国人や若い女性にとっては近寄りがたい場所でもあった。
ソウルで企画・翻訳オフィスを運営するライターの伊東順子氏によれば、梨泰院が今のような一般の韓国人にも人気の街になったのは2000年代半ば以降だという。米兵が減った代わりに外国人観光客が多く訪れるようになった。さらに、イスラム圏の人々が多く暮らすようになり、街が多国籍化した。
また、2010年代に入ると若者の創業ブームが梨泰院にも波及し、比較的地価の安い路地裏に個性的な店が次々と誕生していった。そこには、性的マイノリティの人々も含まれていた。
日本でも人気の韓国ドラマ「梨泰院クラス」も、多様な価値観を受け入れ、それを楽しむことができる街として梨泰院を描いていた。海外にいる気分を味わえるきれいな建物、世界各国の多様な人種、誰もが自由に見える。世界の縮図のような街――若者にとっての梨泰院は、一発逆転を可能にするコリアンドリーム実現の舞台でもあった。