【解説】 開戦から9カ月超を振り返る、ウクライナでプーチン氏の戦争目標はどうなっているのか

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【解説】 開戦から9カ月超を振り返る、ウクライナでプーチン氏の戦争目標はどうなっているのか

【解説】 開戦から9カ月超を振り返る、ウクライナでプーチン氏の戦争目標はどうなっているのか

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が2月24日に兵20万人をウクライナへ送り込んだ時、数日もすれば首都キーウを制圧し、ウクライナ政府を転覆できるはずだと思っていた。

ロシア軍はたちまち多くのウクライナ領を掌握したが、キーウ包囲では失敗した。

そしてそれから数カ月のうちに、ロシア軍は屈辱的な後退を繰り返し余儀なくされた。最初は北部で。続いて南部で。これまでのところ、侵略開始当初に制圧したウクライナ領の半分以上を、すでに奪還されている。

■プーチン氏の当初の目標は

ロシアによるウクライナ侵攻は、第2次世界大戦以降の欧州で最大規模の侵略戦争で、数百万人のウクライナ人が国内外への避難を余儀なくされているが、プーチン大統領はいまだにこれを「特別軍事作戦」と呼ぶ。

2月24日にウクライナの北部、南部、東部へ兵を派遣したプーチン氏は、目標は「ウクライナの非軍事化と非ナチス化」だと自国民に説明した。いわく、ウクライナ政府に8年にわたり威圧され、ジェノサイド(大量虐殺)行為を繰り返されてきた現地の人々を保護することが、目的なのだと。こうした主張はいずれも、客観的証拠の裏付けがない。大統領はこのほか、北大西洋条約機構(NATO)がウクライナに足掛かりを得るのを防ぐことも目的の一つに挙げていた。加えて、ウクライナの中立を確保するというのも、目的に付け加えられた。

ロシアにとって特に優先順位が高かったのは、ウクライナ国民が選挙で選んだ大統領を失脚させることだった。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、「敵は私を標的その1に、家族を標的その2に指定した」と述べた。大統領顧問によると、ロシア軍は2度にわたり、首都キーウの大統領府を急襲しようとした。

■「自分たちでも説明できない」

ロシアはウクライナについて「ナチス」だと繰り返す。あるいはウクライナ東部で「ジェノサイド」があったと繰り返す。それはまったく根拠のない主張だが、それでもロシアが2014年から繰り返してきた物語の一部だった(2014年は、ロシアがクリミア半島を併合し、そしてロシアが後押しする勢力がウクライナ東部のルハンスク州とドネツク州の一部を制圧したことで、ロシアとウクライナとの戦争が始まった年だ)。

「狂っている。時には(ロシア側も)自分たちが何の話をしているのか説明できないんだ」と、ウクライナのドミトロ・クレバ外相は言う。

ロシア国営リア・ノヴォスチ通信は4月初めの論考で、「非ナチス化とはすなわち、否応なく、非ウクライナ化でもある」と書いた。つまり、ロシアの目標は現代ウクライナ国家の抹消だというわけだ。

この論考が発表されたのは、キーウ郊外のブチャでロシア兵が民間人に対してさまざまな戦争犯罪を重ねていたことが明らかになった時期と重なる。米ワシントンにあるニューラインズ戦略政策研究所は5月、ロシア政府が国家としてジェノサイドを扇動していたと非難した。

ウクライナのNATO加盟に関して言えば、侵略が始まる前からウクライナはすでに、NATOには入らないと、ロシアと暫定的に合意していたと言われている。ロシアは隣国ウクライナのNATO加盟を望んでいない。そのようなことになれば、西側の軍事同盟があまりに自分たちの領土に近接してしまうと恐れているからだ。

3月にもなるとゼレンスキー大統領は、NATO加盟は実現しないと公に認めていた。「これが真実で、そう認識しなくてはならない」と。ウクライナはこの時点で、非同盟の非核国家になるという提案をロシアに打診したが、交渉は決裂した。

■戦争目標の修正

侵攻開始から1カ月たつころには、ロシアの戦役が予定通りに進んでいないのは明らかになっていた。プーチン氏は「第一段階」の完了を宣言し、その野望を劇的に縮小してみせた。

ロシア軍はキーウとチェルニヒウの周辺から後退し、北東部で勢力を再編した。戦争の主な目標は「ドンバス解放」にすり替えられた。「ドンバス」とは、ウクライナの東部ルハンスクとドネツク両州にまたがる工業地帯を漠然と指す。

ロシア軍は、ウクライナ軍の機動性に十分対応できず、補給線の確保も不十分だった。これが後退の原因だった。ロシアの補給がいかに拙劣だったかを戦争初期にまざまざと示したのが、キーウ近郊で身動きが取れなくなった全長64キロもの装甲車の車列だった。

ロシア軍の最近の大撤退というと、11月11日の南部ヘルソン撤退だ。ウクライナ軍のヴァレリー・ザルジニー総司令官によると、ロシアのヘルソン撤退の原因も、補給線の破壊と指揮系統の混乱だった。

ロシアが後押しした勢力はすでに2014年の時点で、ドンバス地域の3割を制圧した。しかしその戦いの大勢はもっぱら膠着(こうちゃく)状態に陥っていた。3月末の時点で、現地の親ロシア勢力はルハンスク州の大半を掌握したと宣言していたが、ドネツク州については半分余りを抑えただけだった。

ロシア軍はドネツク州の港湾都市マリウポリを徹底的に破壊した末、5月下旬に制圧した。プーチン大統領にとっては数少ない大勝利の一つで、ロシア軍にとってはクリミアにつながる貴重な陸の回廊だった(ロシアは2014年にウクライナのクリミア半島を併合している)。

この時点のロシア軍はまだ、ウクライナ南部の占領地を増やせるだろうと期待できていた。軍幹部の将軍は、ウクライナ南部の黒海沿いを掌握することで隣国モルドヴァの飛び地まで掌握する可能性に言及していた。ロシア軍最高司令官の1人、ルスタム・ミネカエフ副司令官は、「ウクライナ南部を掌握することで、トランスニストリア地域への新たな道ができる」と述べていたのだ。

7月初めにもなると、プーチン大統領はルハンスク州の完全制圧を宣言できた。ウクライナ軍はこの頃、ロシアの圧倒的な火力によって毎日50人から100人の兵を失っていた。

■ヘルソン攻防

しかし、西側の兵器が、とりわけアメリカのM142高機動ロケット砲システム(HIMARS)が現場に届くようになると、ウクライナ東部でのロシアの補給拠点や武器庫は次々と破壊され、打撃を受けた。かねて南部へルソン州で予想されていたウクライナの反攻も、そのころには本格化していた。

そして9月21日、プーチン大統領はウクライナをめぐり国民向けのビデオ演説で「部分的な動員令」の発動を宣言した。ロシア国防省は、軍務経験がある予備役約30万人を段階的に招集すると明らかにした。ウクライナ東部で長さ1000キロにわたる前線の防衛を、強化するのが目的だった。しかしこの発表を受けて、戦争がいよいよ身近に迫ったロシア人の多くが、次々と国を逃れた。

劣勢に立たされたプーチン氏は9月30日、ウクライナ東部と南部の4州を一方的にロシアに併合すると宣言した。東部のルハンスクとドネツク、そして南部のヘルソンとザポリッジャの各州がその対象だったが、いずれもロシアの支配は部分的にしか及んでいなかった。それでもプーチン氏は、4州は「永遠にロシア」だと宣言した。

そして11月になり、ロシア軍は南部ヘルソン市から撤退した。2月の侵攻開始以来、ロシアが制圧したただひとつの州都だった。

10月初めに、ウクライナ作戦を統括する司令官に任命されたセルゲイ・スロヴィキン将軍は、戦略を変更した。そしてロシア軍はそれ以降、ウクライナの民生インフラ破壊に注力するようになった。ウクライナ全土への徹底的な砲撃で、ロシアはウクライナのエネルギー系統の4割を破壊もしくは破損させた。

ロシア軍はウクライナの戦場では失敗した。そこでロシア政府は、ウクライナ国民の士気を破壊しようと、作戦を変更したのだ。

ウクライナ各地の市町村が砲撃された。11月半ばには、迎撃されたと思われるミサイルがウクライナ国境を越えてポーランドの農場に着弾し、ポーランド市民が2人死亡した。

ポーランドはNATO加盟国だ。そのため、このミサイル着弾によってNATO全体が戦争に引き込まれるのではないかと、世界各地で緊迫が高まったものの、アメリカ政府はロシアがポーランドに直接ミサイルを撃ち込んだ可能性は低いとの見方を示した。

■ロシアの大失態

ロシア軍は州都へルソンを失い、ドニプロ川西岸から兵3万人を撤退させた。戦場で相次ぐ失態の中でも、これは極めて重大なもので、あらゆる後退を足し合わせれば、ロシアによるウクライナ侵略の全体像は失敗に次ぐ失敗に足元をすくわれているということになる。

ロシア軍は3月にキーウやチェルニヒウ周辺から後退したのに続き、9月初めには北東部ハルキウ州から劇的に撤退。道路や鉄道の一大拠点クピヤンスクや、戦略上の要衝イジュームを手放した。

9月末にもなると、ウクライナ軍はロシアが4カ月前に制圧した東部ドネツク州の要衝リマンも奪還した。

ロシア軍の失敗は戦場以外にも及んだ。ウクライナ軍は4月、ロシア黒海艦隊の旗艦、巡洋艦モスクワを沈没させた。ロシア軍は6月30日には、黒海の北西部にあるズミイヌイ(英語名スネーク)島から駐留部隊を撤退させた。

クリミアでもロシアは手痛い敗北を喫した。ロシアが2014年にクリミアを併合した後にケルチ海峡にかけた橋が、10月初めに爆発で大きく破損し、ロシアの補給線が寸断された。さらに10月には、ウクライナがセヴァストポリを拠点とする黒海艦隊をドローンで攻撃した。

プーチン大統領自身はこうした作戦面での失敗から距離を置こうとしているものの、国際的な権威は損なわれているようだ。

セヴァストポリへのドローン攻撃を受けて、ロシア政府はトルコが仲介する穀物輸送合意から離脱しようとした。しかし、国連とトルコがロシア不在でも穀物輸送を続けることにすると、プーチン氏は判断を一変させた。ドイツのアナレーナ・ベアボック外相はドイツ紙ヴェルトに、「ロシアはまたしても飢餓を武器に、穀物を武器にしようとした。国際社会はこれに対して態度を明示した。ロシアのうそは信じないと」と述べた。まさに、国際社会は、ロシアのゆすりに屈するのを拒否したのだった。

■侵略は失敗したのか

ほとんどの尺度で測れば、ロシアの戦争遂行はうまくいっていない。しかし、それでもロシアは2014年に奪ったウクライナ領をすべて支配しているし、クリミアからロシア国境へ至る陸の回廊も支配下にとどめている。

プーチン大統領による部分的動員は今のところ、戦場でかなりの成果を出しているとは言えない。

ロシア軍はもう何カ月も前から、ドネツク州のバフムートを奪おうとして、その周辺では多少の勝利を収めているものの、そこで苦戦していることからして、ロシアの野望がいかに当初から比べて縮小したかを示す結果となっている。

そして、プーチン氏の目標が本当にNATOをロシアから遠ざけることだったなら、それも失敗した。ロシアのウクライナ侵攻でむしろスウェーデンとフィンランドは、ロシアの脅威を前に、NATO加盟を申請するに至ったからだ。

■プーチン氏の主張の変化

ロシアの大統領はもう何年も前からウクライナについて、独自の国家ではないと主張してきた。昨年7月に発表した論文では、9世紀末にさかのぼり「ロシア人とウクライナ人はひとつの民だった」と論じた。

開戦前の2回の演説でもプーチン氏は同じ主張を繰り返し、「キエフ」の政権がロシア語を抹消し、NATOはウクライナに足掛かりを得ようとしていると批判。大統領は後に隣国を「反ロシア」とも非難した。

9月にもなると、プーチン氏の言い分では「我々の国を弱め、分断し、究極的には破壊」しようとしているのは西側諸国で、ウクライナは「核兵器保有の野心を抱いている」ということになった。

しかし現実には、ソヴィエト連邦が1991年に崩壊した際、ソ連から独立したウクライナは自ら自国領内にある核兵器をすべて廃絶すると宣言した。

他方でプーチン大統領は開戦以来、さまざまな形で核兵器の使用をほのめかし続け、ロシアの領土的一体性を守り、占領地域も決して手放さない姿勢を示してきた。

「ロシアと国民を守るため、我々は持てるあらゆる手段を使う。これは、はったりではない」と、プーチン氏は9月の時点で言明している。

■NATOのせいなのか

NATO加盟国は、ウクライナの防衛を支援するため、防空システムやミサイルシステム、大砲やドローンを相次ぎ提供した。これがロシアの侵略を押し返してきた。

しかし、この戦争が起きたのはNATOのせいではない。むしろ、スウェーデンとフィンランドが正式に加盟申請したのは、ロシアのウクライナ侵攻のせいだった。ロシアが9月30日に、ウクライナ4州の併合を一方的に宣言した同じ日、ウクライナ政府はNATOに加盟手続きの迅速化を要請すると発表した。

この戦争はNATOの東方拡大のせいだというロシアの言い分は、欧州ではある程度、受け入れられている。開戦前にプーチン大統領はNATOに、1997年の状態に戻るよう要求し、中欧、東欧、バルト半島から軍備を引き上げるよう求めた。

プーチン氏の目線からすると、西側は1990年にNATOは「1インチたりとも東へ」拡大しないと約束したにもかかわらず、東へどんどん拡大してきたということになる。

しかしそれはソ連が崩壊する前の話で、当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏への約束は単に、ドイツ再統一の文脈から、東ドイツに限定された内容のものだった。

ゴルバチョフ氏はのちに、当時「NATO拡大の話題はまったく協議に上らなかった」と述べている。

プーチン氏が最も懸念しているのは、NATOの集団安全保障体制だ。ロシアは2008年に隣国ジョージアに侵攻し、その6年後にウクライナに軍を送り込んだ。

対するNATO側は、ロシアが2014年に違法にクリミアを併合するまでは、東欧に部隊を派遣するつもりなどなかったと反論している。

(英語記事 Why did Russia invade Ukraine and has Putin’s war failed? )

(c) BBC News

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