光州5・18で集団発砲のきっかけとされた軍人の死は「戒厳軍の装甲車による轢死」 

[ad_1]

5・18当時「車輪型装甲車」を運転した市民軍、初の証言

1/4

光州5・18で集団発砲のきっかけとされた軍人の死は「戒厳軍の装甲車による轢死」 

1980年5月21日正午頃、光州市錦南路の全日ビル前で戒厳軍装甲車が市民に機関銃を向けている。上の装甲車は午後1時頃兵士1人を轢き殺した後、市民に機関銃を発砲したと調査委は説明した=5・18調査委提供

光州5・18で集団発砲のきっかけとされた軍人の死は「戒厳軍の装甲車による轢死」 

5・18民主化運動当時、旧全羅南道庁前の集団発砲現場にいた市民軍のCさんが、当時自分が乗っていたと推定される装甲車の写真を指している=キム・ヨンヒ記者

光州5・18で集団発砲のきっかけとされた軍人の死は「戒厳軍の装甲車による轢死」 

5・18民主化運動当時、戒厳軍が無限軌道型の装甲車を動員してバスに乗った市民を連行している=機務司令部の写真集より

光州5・18で集団発砲のきっかけとされた軍人の死は「戒厳軍の装甲車による轢死」 

1980年5月21日、戒厳軍が旧全羅南道庁前の集団発砲直前に市民と対峙している様子=機務司令部の写真集より

 8日、光州市北区(クァンジュシ・プクク)のある事務所でハンギョレのインタビューに応じたCさん(64)は、43年前の1980年5月21日、旧全羅南道庁前で見た戒厳軍の凄惨な姿を忘れることができないと語った。当時、彼はデモ行列の先頭で市民らが乗った装甲車を運転していたため、事故状況を詳しく知ることができたという。21日に戒厳軍が道庁前で集団発砲する直前、デモ隊の装甲車を運転していた運転手の証言が出たのは初めてだ。

 Cさんは「市民と戒厳軍が対峙する状況で、装甲車の中にいた大学生の先輩たちが『行け、行け』と叫び、隣にいたバスが先に前に進んだので、装甲車を5メートルほど前進させた。装甲車が重くて、速いスピードではなかった」と言い、「私たちの前にいた戒厳軍の装甲車が後ろに後進し、装甲車の右側(Cさんの視野基準)にいた兵士の下半身が軌道に轢かれた」と思い起した。Cさんの証言は、5月21日の道庁前の集団発砲が「デモ隊の装甲車によって戒厳軍が犠牲になったことによる自衛権発動の次元だった」という全斗煥(チョン・ドゥファン)氏などの主張が偽りであることを示しているという点で、非常に重要だ。チ・マンウォン氏ら極右勢力は、市民軍が軍用装甲車を運転したということは、光州に北朝鮮特殊軍が介入していたことを示す証拠だと主張している。

 当時、市民たちは全日ビルの前でバスやトラックなどを動員し、戒厳軍を道庁側に追い込んでいた状況だった。Cさんが乗った装甲車は、亜細亜自動車(起亜自動車の前身)の工場から市民が持ち出したCM6614機種の車輪型装甲車で、戒厳軍が乗ったM113、125機種の軌道型装甲車とは外形からして違った。事故前にすでに実弾を分配していた戒厳軍は、M16小銃と装甲車に装着された機関銃キャリバー50などでデモ隊に向けて発砲した。

 Cさんは「事故が起きた後、銃弾が乱射された」とし「恐ろしさのあまり噴水台をぐるっと回って全南大学病院側に逃走し、その後道庁前の状況がどうなったのか分からない」と話した。

 1980年、Cさんはポニーワゴン車で光川工業団地の工場から北区雲岩洞(ウンアムドン)のヨンイル食品工場に包装紙を配送する仕事をしていた。1978年に運転免許を取った彼は、貨物車の運転手として働きたくて、パン袋の配送で運転の経験を積む一方、8トントラックの助手の仕事も同時にこなしていた。

 正確な日付(18日推定)は覚えていなかったが、5・18民主化運動の時、ヨンイル食品からパゴダパンを積んで道庁前の戦闘警察に配達したことをきっかけにデモに参加した。Cさんは「パンを渡して出たところ、戦闘警察に催涙弾の箱を渡され『いま後退しなきゃならないのだが、パン工場が本部と近いので、市民たちに見つからないよう置いておいてくれれば後で取りに行く』と言った」とし「光州川辺の方に出ると軍人たちに車を止められ、催涙弾を指して『盗んだのか』と言われてめちゃくちゃに殴られた。血まみれになってなんとか状況を説明し、やっとその場を逃れた」と語った。Cさんはポニーを花亭洞市場の自宅に置き、無断欠勤した後、怒りが爆発しデモに参加したという。

 彼は「尚武館と東部警察署の間の道に入ると装甲車が1台あり、大学生の先輩たちが運転できる人を探していた。私は8トントラックを運転した経験があるので、装甲車を運転してみると言った」と回想した。装甲車の運転席は変速レバーの形と位置が違っていただけで、一般トラックと似ていたという。

 Cさんは「視野が狭いことを除けば装甲車の運転は難しくはなかった」とし「主に和順(ファスン)や光州刑務所、松岩洞(ソンアムドン)などの郊外を回って、民間人の負傷者や遺体を乗せて道庁側に運んだ」と説明した。一度に2~5人ずつ数回移送を繰り返した。車内が狭くて遺体を上下に重ねて載せたこともあり、いまでも亡くなった人たちに申し訳ないと感じているという。

 移送するたびに絶えず装甲車に銃弾が当たる音がした。怖くて降りると言うと、隣に乗っていたグァンス(またはグァンヒ)という名前の2歳年上の大学生が「君がいなければ誰が装甲車を運転するんだ」と言って引き止めた。道庁でしばし降りてトイレに行く時も、大学生市民軍たちはCさんが逃げるのではないかと、いつもついていた。

 松岩洞で特に激しく射撃を受けた直後、Cさんは光州基督病院に患者を降ろした後、装甲車を停めて飛び出した。その後、戒厳軍に捕まって尚武台営倉に連れて行かれたが、連行の途中で手首の関節が外れ、治療を要求するとそのまま解放されたという。

 現在、小さな事業体を運営しているCさんは、万が一の不利益を懸念して40年あまりの間デモに参加した事実を隠して生きてきたという。しかし、極右勢力が市民軍の装甲車を北朝鮮の特殊軍浸透の根拠にしていることを聞き、2020年に5・18記念財団に連絡し、装甲車を運転していた事実を証言した。

 Cさんは「車輪型装甲車はトラックを運転できる人なら誰でも運転できる」とし、「真実に対する歪曲が止まるまで5・18は終わらない」と強調した。

 5・18記念財団のチャ・ジョンス記録真実部長は「全斗煥氏は回顧録で市民軍の装甲車が突進して兵士を轢き殺したため発砲したという論理を展開し、5月団体と法廷争いを繰り広げ、現在最高裁に係留中」だとし「戒厳軍の自衛権だったという論理を打ち破る意味のある証言」だと述べた。

キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

[ad_2]

Source link