日出城の人骨「人柱の可能性高まる」 平井義人町資料館長が講演

日出城の人柱のほこら

日本各地には、祈願のために人々が生きたまま埋められる「人柱」の伝説が残っています。しかし、これが実際に行われたかどうかは専門家の意見が分かれています。大分県の日出城(日出町)で行われた1960年の発掘調査について、町歴史資料館の平井義人館長が昨年新たな資料を発見し、それを精査した結果、「実際に人柱である可能性が高くなった」と結論づけました。これは今後の議論を呼びそうです。

新資料の発見と武士の人骨

平井館長は、町中央公民館での講演会において、新たな資料に基づいて自説を披露しました。発掘調査に同行した県立日出高の生徒が残した記録によれば、木棺に収められた老武士らしい人骨が発見された際の状況は、人が生きたまま埋められたということがより明確になっているとのことです。

日出城では、城下海岸遊歩道の工事中に木棺に収められた人骨などが発見されました。大分大学などの調査によると、これは築城時の人柱と推定され、地元の有志たちがほこらを建てたのです。しかし、工事の際に遺物は処分され、報告書や町に残る資料はありませんでした。そこで平井館長が手に入れたのが、日出高の生徒が記した会誌「青柳史談」です。この中には、発掘された木棺の詳細な見取り図などが含まれていました。

木棺の中身と人柱の伝説

木棺は円筒形の桶で、高さ98センチ、直径86センチでした。遺体の上にかぶせるように置かれていたとのことです。遺体の髪の毛は白髪で、チョンマゲの形をしていましたが、空気に触れることでバラバラになってしまいました。また、遺体の脇には数センチの翁像の陶器が置かれていました。木棺の周囲は石室状になっており、大きな石で空間が作られていました。石室の上部は1トンを超す大石で蓋がされており、その上には錆びた鉄の兜が置かれていました。

このような報告文から、武士が生きたまま桶に入れられ、埋められたことが明確になっています。もし武士が死んでから桶に入れて安置されていたのであれば、桶の上下が逆になるはずです。

各地の人柱伝説と比較して

平井館長は、全国の15の城に残る人柱伝説を比較してみました。人柱にされる対象は、城下の美しい娘や旅の僧侶が多いですが、理由は志願、指名、クジ引きなど様々です。また、難工事を人柱の理由にする例が多いですが、難工事でなくても伝説が残っている城もあります。

実際に人骨も見つかった例は福島県の磐城平城だけでした。1921年の工事中に偶然、人骨や古銭が出土し、95歳の老人に舞を命じて一斉に土をかけ、人柱にしたという伝説が残っています。一方、江戸城伏見櫓では関東大震災の修復工事中に約20体の人骨や古銭が出土しました。現場には人柱伝説がなく、真偽を巡って歴史や民俗学者たちの間で大きな論争が起こりましたが、結論は出ていません。

人柱の意義と結論

平井館長は、各地の人柱伝説を裏付ける公式文献は存在せず、発掘例もないため、高校生の記録であるものの、日出城の詳細な状況は注目に値すると強調しています。また、老武士を人柱にした目的については新たな謎だと話しました。

個人的な見解として、中世の人々が、神社へのさい銭を例に挙げています。中世の人々は、自分たちの願いが叶うことを期待して、人柱が城の物理的な強度につながると信じていたわけではないと推測しています。公的な記録が残されなかった理由については、「願かけとしての人柱が当時の当然の習慣で、粛々と実施されたからだとも考えられる」と結んでいます。

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