東京の郷土料理と聞くと、何を思い浮かべるだろうか?
日本最大の風俗街として知られる吉原のそばに、それはある。馬肉を味わう鍋料理・桜鍋の名店「桜なべ 中江」だ。
【全画像をみる】吉原名物・かつての「ファストフード」はなぜ高級料理に?岡本太郎ら著名人が愛した文化財の名店
外観は、再開発が続く一帯でもこの場所だけ時が止まったような、そんな雰囲気が漂う。2010年(平成22年)には登録有形文化財にも指定された、都内でも貴重な建物の一つだ。
来年で創業120年を迎えるお店を仕切るのは、4代目の中江白志(なかえ・しろし)さん。
かつては歌舞伎役者の11代目・市川団十郎や小説家の武者小路実篤といった著名人も足を運んだという、中江の120年の歴史について、話を聞いた。
実はファストフードだった桜鍋
明治の頃、吉原遊郭の門前では20~30軒もの馬肉料理店が軒を連ねていた。
初代・中江裙太郎が明治38年に桜なべ中江を開店し、2代目の時には関東大震災、3代目の時には東京大空襲という、苦難の歴史を乗り越えながら現代までお店をつないできた。
なぜ、吉原で馬肉料理が栄えたのか。馬肉は精がつく食べ物とされているように、吉原に行き来するお客さんが食べていたことが背景にあると言われているが、実はそれだけではない。
当時、吉原の裏手には田園地帯が広がっており、農耕用から運搬用までたくさんの馬がいた。そうした馬は、高齢や怪我で動けなくなると、肉になって供給されていた。
その他には、交通手段であった馬で吉原に遊びにきたお客さんの“借金のカタ”として馬が売られて、回り回ってお店で出されることもあったという。
今では全く想像できないが、ここ東京の地でも需要と供給がマッチした地産地消が成り立っていたのだ。
遊郭でにぎわっていた頃は、昼から翌朝までのほぼ24時間営業。現在は高価な食べ物として知られているが、当時はファストフードのような気軽に食べる店としてたくさんのお客さんに利用されていた。
その名残は今も残っている。馬肉が入れられた鍋をよく見ると、通常の鍋料理で使われるものとは違い、底が浅い作りとなっていることが分かる。これは、肉にサッと火が通るようにするためだ。
しかし、そんな吉原のファストフードも、戦争によって大きく変わることになる。日本国内の馬は軍馬として徴用され、日本中に馬がいない状態が続き、豚肉などで代用して営業を続けた。
戦後になると、今度は宅地化とモータリゼーションによって、吉原から完全に馬が姿を消す。こうして、かつて安価に食べられていた馬肉も貴重となり、影を潜めることとなった。
現在中江では、福岡県久留米市にある牧場で中江専用に育てた純国産馬の桜肉を提供する。
身近に親しまれている馬刺し用の桜肉は1~2歳ほどの若い馬を用いるが、中江では桜鍋専用に7~8歳まで、生きながらに熟成させた馬肉を使用する。
これまでは年配客が多くを占めていたが、最近では、低カロリーで、鉄分・タンパク質コラーゲンが豊富な美容食として、馬肉は若者や女性の人気も高いという。
桜鍋以外にも、馬刺しや握り寿司、さらには岡本太郎がフランスでよく食べていたというタルタルステーキを参考にリクエストされた「タロタロユッケ」など、馬肉を用いた料理のバリエーションは実に豊富だ。
コロナ禍では、テイクアウト用にガパオライスやハンバーグを販売したり、近年は外国人観光客向けにヴィーガン桜鍋の提供を開始したりしている。
実は、1日に1組は外国人観光客が訪れるという中江。お店での体験を通じて、海外の人が日本に愛着を持つことが、最終的に平和につながるのではないかという思いからだ。
「いつまでも文化を残すためには、平和であり続ける必要があると思っています。平和だから築100年以上の建築が残るんです」