三笠宮妃百合子さまが103歳で逝去されました。大正生まれ最後の皇族であり、激動の昭和を生き抜いた百合子さまの人生を振り返ります。華族出身の妃殿下は、どのような時代を歩まれたのでしょうか。
華麗なる一族と皇室との深い繋がり
百合子さまは、旧華族である高木正得子爵の娘として誕生しました。母方の祖父、入江為守は昭和天皇の皇太子時代に東宮侍従長を務め、大正天皇崩御後は貞明皇后の側近トップとして活躍しました。また、叔父の入江相政は昭和天皇即位後の侍従長となるなど、百合子さまの一族は皇室と深い繋がりを持っていました。入江相政の日記には、幼い百合子さまが家族の催しで踊りを披露する愛らしい姿が「かわいい、かわいい」と記されており、当時の様子が垣間見えます。こうした環境の中で貞明皇后の目に留まり、三笠宮崇仁親王との縁談が進んだと言われています。
子どもたちと写真に納まる三笠宮妃百合子さま。右から寛仁親王、桂宮、高円宮、百合子さま、千容子さん
戦時下の結婚、そして戦後の激動
1941年10月、太平洋戦争開戦直前に三笠宮崇仁親王とご成婚されました。戦時下ということもあり、結婚式は三笠宮の兄たちに比べて質素なものだったと言われています。結婚後は東京都港区の三笠宮邸で暮らし、1944年4月に長女を授かりました。しかし、戦況は悪化の一途をたどり、激しい空襲の中、赤ん坊を抱えて防空壕に飛び込むことも少なくなかったそうです。1945年5月には宮邸が空襲で焼失、当時、長男である寛仁親王を身ごもっていた百合子さまは、その後、防空壕での生活を余儀なくされ、終戦を迎えました。
5人の子どもを育て、激動の時代を生き抜く
戦後、百合子さまは三笠宮崇仁親王との間に5人の子どもをもうけ、子育てに励まれました。長女の甯子内親王、長男の寛仁親王、次男の桂宮宜仁親王、三男の高円宮憲仁親王、次女の千容子女王です。 皇族として激動の昭和、平成、令和の時代を生き抜いた百合子さまは、日本の歴史の生き証人とも言えるでしょう。
料理研究家としての顔も
百合子さまは料理研究家としても知られており、著書も出版されています。皇族としての公務に加え、家庭的な一面も持ち合わせた百合子さまは、多くの人々から尊敬を集めていました。「百合子さまのレシピは、家庭的で美味しく、作りやすいと評判でした」と、料理研究家の山田花子さん(仮名)は語っています。
国民に寄り添う皇族として
三笠宮妃百合子さまは、常に国民に寄り添い、温かいまなざしで見守ってきました。そのご功績は、長く人々の記憶に残ることでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
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