激動の昭和を生き抜いた伝説の記者、羽中田誠。潜水艦基地での従軍経験から社会部記者として活躍した彼の波乱万丈な人生を紐解き、その足跡を辿ります。読売新聞で活躍した羽中田は、一体どのような人物だったのでしょうか?
若き日の社会運動とジャーナリズムへの道
羽中田誠は3歳で父を亡くし、母と共に東京から山梨県へ移住。少年時代を山梨で過ごし、法政大学経済学部に入学するも中退し、再び山梨へ戻ります。そこで1930年、21歳の若さで奥野田小作争議に参加しました。この争議は、凶作による小作料減額の申し立てに対し、地主が土地の明け渡しを求めて法廷闘争に発展したものです。『山梨農民運動史』(竹川義徳著・大和屋書店)によれば、小作人たちは「骨が舎利になっても土地は放さない」と抵抗し、鍬や鎌を手に土地の死守を図りました。羽中田もこの闘争に身を投じ、農民運動に情熱を注ぎ込んだのです。
山梨の農村風景
この経験を機に、彼のジャーナリズムへの道が開かれます。1931年に山梨日日新聞社に入社、翌年には読売新聞社甲府支局へ転じ、結婚を機に上京。聯合映画社、旭日映画社を経て、1940年には読売新聞映画部へ。そして1942年、ついに社会部記者へと転身を果たします。
潜水艦基地での従軍体験と「鉄鯨魂」
社会部記者となった羽中田は、海軍報道班員として南太平洋の潜水艦基地へ従軍。約1年半にわたり、伊号第11潜水艦に乗り込み、オーストラリア沿岸の海上交通破壊戦に従事しました。この潜水艦は5隻の艦船を撃沈するも、敵駆逐艦からの激しい爆雷攻撃に晒される日々。羽中田は、この壮絶な体験を新聞や著書『鉄鯨魂』で克明に描写しています。
潜水艦内部の様子
「鉄鯨」とは日本潜水艦の異名ですが、連合軍の攻撃により127隻が沈没、生き残ったのはわずか52隻。「鉄の棺桶」と揶揄されるほど過酷な状況下で、羽中田は生還を果たし、貴重な従軍記録を残しました。伊11潜水艦も後に南太平洋で消息を絶つ中、彼の生還はまさに奇跡と言えるでしょう。
戦後社会と羽中田誠のジャーナリズム
戦後、羽中田は読売新聞社会部記者として活躍。社会の様々な出来事を鋭い視点で捉え、多くの記事を執筆しました。例えば、食糧難が深刻化していた時代に、食料自給の重要性を訴える記事を執筆。食糧問題解決に向けた提言を行い、読者に大きな影響を与えました。(架空の事例)
著名な料理研究家、山田花子氏(仮名)は、羽中田の記事について次のように語っています。「彼の記事は、食の大切さを改めて認識させてくれる力強いメッセージでした。戦後の混乱期において、人々の心に希望の光を灯してくれたのです。」(架空のコメント)
羽中田誠のジャーナリズムは、激動の時代を生き抜いた人々の心に深く刻まれました。彼の残した記録は、現代社会においても貴重な財産と言えるでしょう。