この記事では、TBS日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」の舞台となった長崎県端島、通称「軍艦島」の閉山に至るまでの10年間、特に1965年から1974年までの島民の生活や閉山決定の経緯について詳しく解説します。ドラマでは描ききれなかった島の歴史や人々の想いに迫ります。
希望に満ちた1965年と新たな坑道の開発
1965年、軍艦島の炭鉱は最盛期と比べると人口は減少していましたが、3391人が暮らす活気ある島でした。採掘の機械化・合理化が進み、住環境も改善され、島民たちは明るい未来を描いていたのです。
この頃、島から南西約3km沖合に新たな炭層「新坑」の開発が始まりました。この新坑への期待は大きく、ドラマ最終話でもその喜びの様子が描かれています。700m以上掘り進められた新坑は、まさに島の未来を担う希望の光でした。
alt: 軍艦島の外観
そして閉山の影… 新坑開発の頓挫とエネルギー革命の波
しかし、その希望はわずか5年後、1970年には打ち砕かれました。新坑の炭層が予想以上に深く、当時の技術では採掘不可能と判明したのです。労働組合は独自に専門家による調査団を編成しましたが、結果は変わりませんでした。
この新坑開発の断念は、軍艦島炭鉱の閉山を決定づける大きな要因となりました。炭鉱がなければ島の生活は成り立ちません。労働組合は閉山阻止を諦め、退職金や再就職あっせんといった条件交渉へと舵を切ることになったのです。時代はまさに「石炭から石油へ」のエネルギー革命の真っ只中。時代の流れには逆らえませんでした。
閉山当時の組合長の言葉
閉山時の組合長であった千住繁氏は、当時の心境を以下のように語っています。
「そのころは三ツ瀬区域の出炭は順調だったし、そのうえ端島沖が開発されたら、これはもう無尽蔵、みんな意気盛んでしたよ。それが開発不可能だというんだから、前途ようようたる鉱命が一夜にしてアガリヤマになったわけさ」
「私だって青春時代をここで過ごした。組合長として最後の仕事に追われて、感傷にひたっているひまもないがね。身のふり方にしろ、みんなを送り出して、それからですたい」
(『聞き書き──軍艦島』長崎県朝日会)
これらの言葉からは、新坑への大きな期待と、それが断たれた時の落胆、そして島を去る人々への想いがひしひしと伝わってきます。
島民たちの別れ… そして「人文字」に込められた想い
ドラマでは詳細に描かれていませんでしたが、閉山までの10年間、島民たちは様々な形で島との別れを惜しみました。特に印象的なのが、小中学校の生徒たちが校庭で作った「人文字」です。これは、島への感謝と別れを告げる、子供たちの精一杯の表現だったと言えるでしょう。当時の写真からは、子供たちの寂しげな表情の中に、故郷への深い愛情が見て取れます。
alt: 軍艦島の人文字
軍艦島の記憶を未来へ
「海に眠るダイヤモンド」は、軍艦島という特別な場所を舞台に、人間の複雑な感情や時代の変化を鮮やかに描き出しました。この記事を通して、ドラマでは語りきれなかった軍艦島の歴史や島民たちの想いに触れ、この島の記憶を未来へと繋いでいくきっかけになれば幸いです。