「天才アインシュタインの脳は、一般人の脳と何ら変わらない」と言われてきたが、最新の脳科学の知見に基づいた病理解剖によると、ニューロンではない別の脳細胞の数が桁違いに多かったことがわかった。
その細胞の名前は「グリア」。脳細胞の8割以上を占めるグリア細胞は、これまでニューロンの間を埋める詰め物と軽視されてきたが、近年の研究で、神経細胞を制御する重要な役割を果たしていることがわかってきた。グリア細胞研究の最新の科学的知見を紹介した『もうひとつの脳』に収録された、アインシュタインにまつわるエピソードを紹介しよう。
比類なき知性が宿った脳
解剖を終えると、彼はステンレス製のトレイにメスを置き、切り開いた頭蓋骨に両手を差し入れて、細心の注意を払って脳をすくい上げた。
人間の脳を手中に抱くたびに、死の必然性や、個性や生活形態や精神性、各人に与えられたこの世での役割に関する神秘について、さまざまな思いや感情が胸中に湧き上がってくる。
この稀有な人物を形作るあらゆるものは、ほんの数時間前まで、このわずか1.5キログラムほどの複雑な組織として存在していた。
病理学者である彼は、過去に幾度となく同じような感情を抱いてきたが、今回ばかりはその思いも格別だった。なにしろ、目の前のステンレス製の台に横たわる遺体は、アルベルト・アインシュタインであり、両手に抱えていたのはアインシュタインの脳だったのだ。
明るい照明の下で脳を詳しく調べながら、彼は深い驚異の念に打たれて目を見張った。ゼリーのようにみずからの重みでわずかにたわみ、ほかのどんな人間の脳ともまったく変わりなく見えるこの脳が、前世紀屈指の優れた知性を生み出すことができたとは。
そのとき不意に、トマス・ハーヴィ博士はこの脳の中に自身の運命と目的を見出した。それはまさしく、彼の使命だった。
食塩水で丁寧に血液を洗い流したあと、ハーヴィは脳の重さと大きさを計測し、直前に作っておいた、目や鼻を刺激する毒性の強い気体であるホルムアルデヒドの10パーセント溶液に浸けた。
この偉大な人物の遺体が埋葬されるかたわら、その驚異的な脳は、自身の手元にそれを置いておきたいという強烈な衝動に突き動かされた一人の病理学者によって、博物館の珍しい標本のように、保存液の入った広口瓶の中に沈んだまま、その後も40年にわたって隠され続けた。
それは、倫理的にも法律的にも許されることではなかったが、この脳があのような類まれな科学者を生み出せた秘密を解き明かすことは、自分の運命であり、科学と人類に対する責務であると、ハーヴィには思われたのだった。
だがそれは、この病理学者の能力ではとても及ばない仕事だったため、彼はこの科学界の至宝を管理することこそが自分の役割だと考えた。ハーヴィはその後40年にわたって、世界中の科学者、あるいは科学者と称する者たちにその脳の小さな切片を分け与え、さまざまなやり方でアインシュタインの稀有な才能の正体を突き止める手がかりがないかを調べさせた。
そこには比類なき知性が存在し、その知性はほかの誰にも想像できないことを着想してきた。相対性理論があますところなく構築され、詳細に説明されたあとも、その思考は多くの人の理解力を超えていた。
時間の進み方さえ一定ではないという発想をしえた知性だった。時間と空間、物質とエネルギーは独自性を失い、一方から他方へと自在に姿を変えた。伸縮する時間のなかにあっては、事象もまた流動的なものとなった。
そして、思考力だけを頼りにこの発見を成し遂げるために、この知性はなんと、自分が一筋の光線に乗っているところを思い描いたというのだ。