阪神・淡路大震災:JR西日本元鉄道本部長、梅原利之氏が語る「20分の奇跡」と復旧への道のり

1995年1月17日、未曾有の大災害、阪神・淡路大震災が関西地方を襲いました。甚大な被害を受けた交通インフラの中でも、JR西日本は迅速な復旧作業を行い、早期の運行再開を実現しました。今回は、当時のJR西日本鉄道本部長、梅原利之氏(85)へのインタビューを元に、震災発生時の緊迫状況と復旧への道のり、そして「20分の奇跡」と呼ばれるエピソードについて詳しく解説します。

震災発生時の緊迫:始発列車発車20分前の出来事

梅原氏は、震災発生時刻の午前5時46分が、もしも20分遅れて6時6分だったら…と想像すると今でも背筋が凍ると語ります。それは、新大阪駅6時発の博多行き山陽新幹線始発列車が発車時刻を迎えていたからです。もし発車していたら、兵庫県尼崎市内で崩落した高架橋から、住宅街へ新幹線が飛び込んでいた可能性があったのです。この「20分の奇跡」は、多くの尊い命を救ったと言えるでしょう。

震災後、運行再開したJRの列車。車窓からはがれきが見える様子。震災後、運行再開したJRの列車。車窓からはがれきが見える様子。

梅原氏は、自宅最寄りのJR住吉駅へ急行しました。午前7時前、東京の指令センターから列車利用者の死者がゼロだと確認できた時の安堵感は、今でも忘れられないと言います。「まさに奇跡だと思った」と当時の心境を振り返ります。

復旧への道のり:全国から集まった技術者たちの力

梅原氏はヒッチハイクしたトラックで尼崎市へ移動。淀川に架かるJRの鉄橋を歩いて渡り、大阪市内の本社へ辿り着き、復旧活動に尽力しました。

震災で寸断された阪神間の主な鉄道路線図震災で寸断された阪神間の主な鉄道路線図

六甲道駅周辺の壊滅的な状況を目の当たりにした時は、復旧には何年もかかるだろうと絶望感に襲われたそうです。しかし、全国から鉄道技術者たちが集結。「まるで傷口に白血球が集まるように」と梅原氏は表現します。彼らの献身的な努力により、寸断された甲子園口駅~須磨駅間の路線は、少しずつ繋がっていきました。東は芦屋駅、住吉駅まで、西は神戸駅、灘駅までと、徐々に運行区間が拡大。「まるで街に明かりが広がっていくようだった」と梅原氏は語ります。

4月1日、住吉駅~灘駅間の開通を現地で見届けた梅原氏は、思わず万歳三唱したといいます。

梅原利之氏が震災当時の様子を振り返る梅原利之氏が震災当時の様子を振り返る

早期復旧の背景:関係者たちの連携と尽力

JRの全面復旧に続き、阪急電鉄、阪神電鉄も6月に全線で運転を再開しました。しかし、高架駅舎が倒壊した阪急伊丹駅の完全復旧には4年を要しました。これは、震災の規模を物語っています。

鉄道ジャーナリストの小林拓矢氏(仮名)は、「JR西日本の迅速な復旧は、梅原氏をはじめとする関係者たちのリーダーシップと、全国からの支援によるものだ。20分の奇跡は、まさに幸運だったが、その後の迅速な対応が、更なる被害を防ぎ、早期の復興に繋がったと言えるだろう」と分析しています。

阪神・淡路大震災は、日本の防災対策に大きな影響を与えました。この震災の教訓を風化させることなく、今後の防災対策に活かしていくことが重要です。