江戸時代の放火犯は「火あぶり刑」だったが…吉原を全焼させた「14歳の遊女・姫菊」が受けた”刑罰”


【画像】通りに男たちがあふれかえる様子(『江戸大地震之絵図』より)

■11年に1回のペースで全焼した吉原

 吉原は公許の遊廓であり、火事で全焼するなどして営業できなくなった場合、妓楼(ぎろう)が再建されるまでのあいだ、250日とか300日とか期日をかぎって、江戸市中の家屋を借りて臨時営業をすることが許されていた。

 これを仮宅(かりたく)といったが、住人の側からすると突然、隣に妓楼が引っ越してくるのと同じである。仮宅ができた地域は一夜にして遊里(ゆうり)に変貌した。

 木造家屋が密集していた江戸は火事が頻発したが、吉原もしばしば火事に見舞われた。

 明暦3年(1657)に千束村の地で営業を開始して以来、明和5年(1768)4月の火事を皮切りに、幕末の慶応2年(1866)11月の火事まで、合わせて18回も全焼している。

 営業を始めてから明治維新までの約210年のあいだ、およそ11年に1回の割合で吉原は全焼した。驚くべき頻度である。そのたびに仮宅となった。

■必須のガイドブック『仮宅細見』

 仮宅が許されたのは浅草、本所、深川など、もともと岡場所があったり、料理屋が多いなど、歓楽の地だった場所が多い。

 妓楼は許可された地区の料理屋、茶屋、商家、民家などを借りた。いちおう妓楼用に改装するとはいえ、にわか造りである。

 とうてい本来の妓楼の豪壮さはない。張見世をするところもあれば、しないところもあった。また、張見世をする場合でも清掻(すががき)(三味線によるお囃子)はなかった。

 仮宅になるとさっそく『仮宅細見』が売り出された。仮宅はあちこちに点在しているため、客にとっては必須のガイドブックだった。

 手ぬぐいで頬被りをした細見売りが道のあちこちに立ち、

 「仮宅細見の絵図、あらたまりました細見の絵図」

 と、声を張りあげ、売りさばいた。



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